※ ここでは、原則として現在流通している全訳をすべて納めることを旨とし、現在流通していない訳書も出来る限り記載した。
なお、Amazon.co.jpアソシエイトプログラムにより、現在入手可能なものはAmazon.co.jpを通じて購入可能なようにしています。
ひどい、『アリス』の持ち味の言葉遊びが全く訳されていない。一応『アリス』は童話だよ。訳語の横に元の英語をカタカナで振って、(○○と××のもじり)という註を入れたような本を子供が喜ぶとでも思っているのだろうか(余談ですが、柳瀬尚紀氏馬鹿にするところの「トートイスの訳本」とはこれのことです)。確かにギャグ以外のところは読みやすいし、僕が最初に『アリス』を読んだのはこの本だから悪口は云いたくない。でもねぇ、ギャグと言葉遊びが命の『アリス』であれじゃあ、庇いたくても庇えない。
訳しているのが日本SFの恩人で、挿し絵が和田誠(なかなか味わいがあります)だから、そういう方面に興味のある人にはいいかも知れない。けれども初めて『アリス』を読む人には薦められない。
訳は角川文庫と同じ。つまりはお薦め出来るものとは云えない。この本で「売り」というとチャールズ・ロビンソンのイラストということか。とはいえ、それだけのために買う価値があるかどうかだが……。
これも似たりよったり。角川のはまだ訳者、挿し絵の付加価値があったが、これにはそれすらない。『パズルランドのアリス』を訳した市場泰男氏によれば角川文庫版、旺文社版、この講談社文庫版の三つを比べた中で最も優れているそうだが、とんでもない話である。
比較的言葉遊びを訳してある。とはいえ中途半端の感なきにしもあらず。初版が1975年なのだが、この時点ではかなりのレヴェルであっただろう。
しかし、それだけなら大したことはない。この本での一番の価値は巻末の解説。これと『鏡の国』巻末の解説とはルイス・キャロルに興味のある人必読であろう。
ただし文句がないわけでもない。テニエルの挿し絵を全部入れてあるのはいいのだが、チェシャ猫が消えるところの絵、もう少し配置しようがあっただろうに。
子供の頃に誰でもお世話になった岩波少年文庫。これの『アリス』はなかなかの出来。文が読みやすいし言葉遊びの扱いもうまい。お馴染みのネズミの尾話、「長くて悲しいのを」「確かに長い尾ねえ」……。この部分、おそらく今ある『アリス』の訳で最高であろう。この部分だけでも一読の価値あり。
(追記)
2000年6月16日、岩波少年文庫版の『不思議の国のアリス』は脇明子訳へ改版された。現在、田中俊夫訳の『ふしぎの国のアリス』は流通していない。
マクミラン社から出た彩色・愛蔵版の『不思議の国のアリス』をキャロル没百年記念に翻訳したもの。原書では挿し絵と本文の配置を極力初版本に合わせてレイアウトしている。それに合わせるため翻訳も横書きとなっている。理由は解るものの、縦書きでないことが気になる。
テニエルによる挿し絵が総て彩色されているので、彩色されたイラストという点だけから考えれば東京図書の『カラー版不思議の国のアリス』の意味がなくなってしまった。彩色されたイラストは、それ自体オリジナルな絵と考えれば美しいものではある。だが、テニエルの絵として考えると、元の絵のはっきりした輪郭線がなくなってしまっているので妙にぼやけた印象が残る。
訳文は読みやすい。言葉遊びにしてもかなりの部分が日本語に直されている。先人の訳でも面白いと思ったところは取り入れ、オリジナルな訳もそれなりに工夫している。そのため、たまに出てくる訳註が目立ってしまう結果になってしまったのだが……。
かなり素直な、初心者向きの訳だと思う。全体に悪い本ではないのだが、やや値段が張り、コストパフォーマンスが必ずしも高くないので、彩色されたイラストに興味があるという人以外には、特に強く薦めようとは思わない。
『愛蔵版 不思議の国のアリス』の翻訳を岩波少年文庫に入れたもの。愛蔵版と違ってイラストは白黒、文章も縦書きになっている。コストパフォーマンスは大幅に向上した。ただ、わざわざ田中訳を廃してまでこの翻訳を入れる必要もなかったように思える。おそらく『鏡の国のアリス』を岩波少年文庫へ入れるのに、両方を同じ訳者で揃える必要があったのだろうが、テキストが一つ減る結果となってしまったのが残念ではある。
どうも困った。特徴がないのだ。訳文の出来は良いし言葉遊びの処理も合格点に達している。イラストはテニエル。でも、それだけという感じ。角川のようなやつだと悪口の書きようもあるのだが、文句もつけられない。初めて読むぶんにはこういった癖のない翻訳がいいのかも知れない。
これは普通に訳した『アリス』ではなく、マーチン・ガードナーの注釈付き『アリス』の訳。はっきり云って読みにくい。訳文が悪いというんじゃない。とにかく註釈だらけで、見るだけで疲れるのだ。言葉遊びはなかなかうまく処理されている(もっとも、別宮貞徳氏に云わせれば、公爵夫人のやりとりに感心できないくだりがあるそうだが)。どちらかというとマニアが読むための本。註釈を取り払った版が望まれる。
ということで註を取り払った版。加えてこの版ではカラーの挿し絵が入っている。と、書けば良いことづくめのようだが、とんでもない。カラー版といっても、色を着けたイラスト('Nursery "Alice"'から取ったのは明白)を、本の途中に何の工夫もなく放り込んだだけ。当然挿し絵が(カラーのもの総て)重複ということになる。どうせならカラーのイラストなど入れずに単なる『不思議の国のアリス』として出して欲しかった。色気なんか出して、註釈本より高い本を出したところで、出版社の見識を疑われるだけですよ。
注釈付き『アリス』出版30年後にマーチン・ガードナーが再び註を付したものの訳。イラストはテニエルではなくピーター・ニューエル。訳は前に『鏡の国』を訳した高山宏。訳文は平易であり、言葉遊びも無理がない。紙の色も目に負担が掛からないものを選んでいる。また、全体の註の数のせいでもあるが、注釈付き『アリス』と違い、読みにくいという感じもしない。
ただ、この本の性質上仕方ないのではあるが、初めて読む人には薦められない。前の注釈付き『アリス』を持っていないとこの本の意義はないように思える(そういう意味では、この本のみ石川澄子でなく高山宏の訳であることは、訳者にとって残念なことともいえる)。「新注」と銘打ってはいるが、あくまで前の註釈本の補足として考えた方がよいのではないだろうか。
これも芹生訳と同じように優等生・初めての人向きという感じの訳。僕としては「……それなのにあなた」「なたでこの子の首を切っておしまい」というくだりが大好きなんですが。
映画『ドリームチャイルド』で『不思議の国』の中の会話が出ていたが、その時字幕に使われていたのがこの訳。
2004年6月に福音館文庫に入り、安価に入手できるようになった。
英和対訳。福島訳になるまで、角川文庫の訳はこれだった。訳者は受験生にお馴染みの『研究者新英和中辞典』第4版までの編者。訳文はやはりというか時代を感じさせる。『アリス』で英語をお勉強、という人には別宮貞徳『「不思議の国のアリス」を英語で読む』と共に参考書として使えるでしょう。でも単に『アリス』を読みたいという人には薦められない。
何と評していいのか……。怪訳とでも呼ぶべきなのだろう。僕はこれを読んでしばらく言葉が出なかった。
この本のアリスは現代っ子である。今までの訳ではなんだかんだ云っても「良家のお嬢さん」的な言葉遣いだというのにこの本では「小生意気な餓鬼」という感じ。もともとアリス自体生意気な性格をしているところへ言葉遣いが余計生意気に見せている。一体誰が「……じゃん」なんて話すアリスを想像したか。
訳者は詩人。その割に言葉の遊びをあまり訳そうとしていない。文体に凝るのも結構だけど言葉遊びは『アリス』の命なんだから、そっちの方もちゃんと訳してくれなくちゃ。
この訳、本文が総て話し言葉になっている。もともと『アリス』はドジソンさんの「お話」なんだから、話し言葉で訳した例が今までにあってもよさそうなものだが、実際にやったのはこの本が初めて。このことは評価されてもいい。
初めて『アリス』を読むには適さず、二度目、三度目に「こんな訳し方もあったのだな」といった感じで読む本。僕はこれを読んで関西弁や京言葉で訳した『アリス』を考えたくなった。「えらいこっちゃ! 遅れてまう……」
アリスの一人称で訳したもの。試みとしては「話し言葉」で訳す以上に大胆といえよう。ただし、原文は三人称で書かれているわけで、どうしても訳す際に無理、そして訳者の創作の部分が入る。また、アリス自身も大人びて訳されている。例えば冒頭の文はこういう具合だ(斜線部にて改行)。
「あたしはアリス。/みなさんご存じの大冒険が始まった日、あたしはねえさんと一緒に丘の上に座っていた。/ねえさんは本を読んでいた」
その結果として作者が本文中でアリスをからかうような部分が訳されない。また、最後にお姉さんがアリスの夢を追体験する部分のみ三人称で訳さざるを得ないために、木に竹を接いだような違和感を感じることになった。また、訳の文体であるが、シロウサギ(のみ)の関西弁、公爵夫人のざあます言葉なども違和感を感じた(「ざます」というのは遊郭で発生、その後地方出身の士族の女性の言葉となったのだから、貴族階級である公爵夫人が使うはずがない。ま、そこまで云わなくとも、訳文のあざとさが鼻についたのは事実)。
また、原作から得られたイメージを映像化したのであろうか(この本は「ストーリィ・リミックス」と銘打たれたシリーズの中の一冊)、本文とは何の関わりもない写真が挿入されている。普通に『アリス』を読む人にとっては「なんじゃこりゃ?」といった感じがするのではないだろうか。また、本文が横書きであり、それも違和感を感じる。もっとも、最近はこういった本がおしゃれなのかもしれないが。
余裕があったら持っていてもいい本かも知れないが、人に薦められるかというと躊躇してしまう。
あの吉田健一である。訳にはかなり期待した。だが、この期待は見事に裏切られた。訳文自体は読みやすいのだが、言葉遊びの部分が全く日本語に訳されていないのだ。他の訳本なんかだと訳語の横に原語の音のルビを振って(○○と××のもじり)と書かれているが、この本はもっと凄い。本文中に「これは英語では○○と発音します」とはっきりと書いているのだ。こういう訳で『アリス』を読んだ子供に同情する。訳者に興味のある人は持っていてもいいだろうが、それ以外の人には薦められない。
翻訳、特に『アリス』のようなものの翻訳のとき、まづ気になるのが訳文の自然さ。言葉遊びの部分ではどの訳も多かれ少なかれ不自然さが目立つ(「ネズミの尾話」、「尊い師だからトートイス」なんかはこの代表)。これも凄い。お馴染みのネズミの話、「長くて悲しい話を〜っぽ」「確かに長い尾っぽ」。読んでて訳者の苦労が目に浮かぶ。もっとも、他の部分はまあまあ自然。これもあまり特徴がないのでいじめただけ。
訳としては、結構読みやすいし言葉遊びにも気を遣っている。柳瀬尚紀以降の訳ということもあり、Mock Turtleの訳に「ウミガメフウ」を用いていることも好感が持てる。本文が横書きであるというのがちと引っかかるが。
例の問題が絡むのか、最近の訳本でMad Tea Partyが「気違いお茶会」と訳されているものが少なくなった。この本でも「気違い」という用語は周到に避けられている。この訳本では「くるくるパーティー」と訳されている。この訳、なかなかの名訳だと思うのだが、どうだろうか?
訳としてはそれほど独創的な物はないし、イラストもテニエルではない。そういう点で入門編という以上の意味では人に薦められない。気に入った部分はネズミの尾話の部分。「長い、しっぽりとした話なんです」「長いしっぽ」。興味のある人はどうぞといったところか。
これも大して特徴がない。イラストもあまりいいとは云いがたい。とはいえ、献詩のところにボート遊びの絵があるのはよかった。入門編としてはいいのかも知れない。でも、なにか食い足りない気もする。
これは、上述の訳の5年前に出版されたもの。同一訳者ではあるが、てんとうむし文庫で出版される前にいくらか訳を改めている(例えば、海亀の先生がこの訳では「しい亀=C調だったから」というのに対し、てんとうむし文庫では「なみ亀=並の亀だったから」となっている)。改訳が存在し、ネズミの尾話がしっぽの形をしていないという欠点もあり、『ふしぎの国』を読むためとしては薦めかねる。
ただし、この本にはもう一篇『いもうとアリス』としてNursery 'Alice'が収録されている。現在、この話の全訳はこれを入れても4種類しかないので、そちらに興味のある人は持っていてもいいかも知れない。ただイラストがテニエルでない上数も少なく、あの「しかけ絵本」的な部分が全く訳されていない。その上キツネノテブクロの講釈が省略されているので、あくまで「興味のある人は」だが……。
(2001年9月22日追記)
『よみきかせ ふしぎのくにのアリス』が出版されたため、Nursery 'Alice'の全訳は5冊となった。
ひどい。洒落が全く訳されていない。「トートアス〔教えた〕」などという訳文に我慢できる人がいるだろうか?
巻頭の献詩も訳されていない。この本に限らず、献詩をないがしろにしている訳は結構目立つ。角川文庫でも訳されていないし、講談社文庫では訳者の勝手な判断で巻末に持ってこられている。一体この訳者たちは何を考えているのだろうか。
この本、挿し絵に味があるので、それを見たい人にはいいのだろうが、普通に読むためには絶対にお薦めできない。
これはポプラ社文庫版『ふしぎの国のアリス』を新装改訂版としてポケット文庫から出したもの。挿絵が中島潔から たちもとみちこ に代わっている。訳文についての評価はポプラ社文庫版と変わらない。挿絵に興味のある人はどうか、といったところである。
ただ、このポケット文庫版が解説までそのままポプラ社文庫版を踏襲していることには、大いに異議を唱えたい。解説で、現在では否定されている求婚伝説を「可憐な逸話」として垂れ流しているのだ。これは親本の出た1982年の時点でも否定されていた説であるし、2005年初頭にLewis Carroll in his own accountが出版されたことでキャロルの銀行口座の出納が明らかにされ、経済的に見てもアリスに求婚するということはあり得ないことが証明されている。まして子供向けの叢書だ。親本をこの叢書に入れる際に、こういったことを全く考慮していなかったとするなら、解説を書いた訳者の見識を疑わざるを得ない。
取り立てて云うほどの訳ではない(洒落も訳しきれていない)。この本、巻末に『鏡の国』の訳を載せている。ただ、これが抄訳。何十年か昔ならともかく、なんで今の時代になって抄訳を付けるようなことをするのだろうか。『鏡の国』は、立派な全訳がいくつも出ている。そんな手間を掛けるくらいなら、本文の訳をもっと磨いて欲しかった。
言葉遊びがいくらか訳されてはいる。でもこれが中途半端。言葉遊びは『アリス』の命。これをちゃんと訳さないのなら他でいくら立派な訳を心がけても「出来損ない」と云われて当然だ。この本を買うくらいなら同じ値段でもっといい訳が何冊か買える。
訳については結構読みやすい。言葉遊びについては、過去の訳のよさそうなところをいろんなところから採ってきたという感じがする。横書きということもあり、値段の割にはどうということのない本、そう思っていた。
しかし、この訳ってドイツ語版『アリス』から訳してるんですよね。そういう意味では結構面白い本ではある。ただ、なんでまた英語の本をドイツ語訳から重訳する必要があるのかという疑問があるが(ドイツ語の本を英訳本から邦訳するのなら、まだ話は解るのだが)。
値段も高いし、第一選択としてあまりお薦めはしかねる。
中村妙子というと僕などはクリスティを思い出す。この本、愛蔵版であり、カラーイラスト掲載ということから値段が税別5,000円と高い。現役の『不思議の国のアリス』では最高値であり『鏡の国のアリス』まで含めても二番目である。そうなると、その値段に見合うだけの翻訳か、ということが問題になるわけだが……。
結論からいえば、そこまでの金を払って買うほどの本ではない。イラスト(ヘレン・オクセンバリー画)は、ちょっと現代風過ぎないかとも思えるがそれなりに面白いので、絵に興味のある人は買ってもいいかもしれない。だが普通に読む分には5,000円は高いだろう。訳文は確かに読みやすいといえる。ただ、言葉遊びの処理が不充分なのだ。英語の言葉遊びを日本語に直しているところもあれば、そのまま英語の発音を仮名で振っているところもあり、しかも同じページの中でそういった処理の差が出てくるのだ(海の底での学校風景の部分が、例として一番解りやすい)。それなりに努力しているのは認めるが、あまりにもばらつきが激しい。
あと、個人的な好みではあるが、本文が横書きなのも気になる。原書の形式を忠実に守ろうとしたのだろうが(そして、そのおもしろさがネズミの尾話の部分では見事に結実しているのだが)、引っかかるのも確かである。
イラストの価値も含め、もしこれが三分の一の値段だったら「持っていてもいいかも」といえなくもないが、現状ではコスト・パフォーマンスが悪すぎる。
余談ながら、第二章冒頭のCuriouser and curiouser!をこの本では「おどろき、モモの木、サンショの木」と訳している。面白いとは思うけれど、今時の子供がこんな言葉を使うかねぇ……。
表紙に著者と画家の名前しか記載されていないことから、一見、リライトした本文を使った絵本のように見える。だが、これはちゃんとした全訳である。表紙に訳者名を載せないことからも解るように、出版社は映画『アリス』を撮ったヤン・シュヴァンクマイエルによる挿絵本であることをセールスポイントにしている。カルト的な人気のあるシュヴァンクマイエルである以上、多分、その選択は正しいのだろう。挿絵の質も当然高い。一方、全訳本であることを知らず、箱入り・ビニールパックであることから絵本と思ってこの本を手に取らないキャロル好きの人間も少なからず出るのではないかと心配する。ここでは、あくまで翻訳書として訳文を評価する。
訳文は柳瀬尚紀以降久しぶりに出る、「だ、である」体、小説の文体で訳された『不思議の国のアリス』だ。あくまで大人向きのシュヴァンクマイエルの絵が童話風な優しい文体を拒否しているので、この選択は成功だったといえよう。縦書きでいながらちゃんと鼠の「尾話」を尻尾の形に視覚化したことも認められてよい(尾話が縦書きのレイアウトで、ちゃんと尻尾の形に見えるのは、今まで安井泉訳『地下の国のアリス』くらいしかなかった)。言葉遊びについては、一部ルビで逃げているところもあるが、概ね日本語に移し替えられている。一部の言葉遊びには先人の訳が使用されていて、村山訳にも見られるように「先人の良いところは盗む」ということが定着してきたようだ。たとえば、Caucus-raceを「ドードー巡り」とするのは矢川訳を使っているし、well inを「いど深く」としたのは田中訳を踏まえた訳(改悪?)だ。dwawを「掻き上げる」としたのは柳瀬訳を使っている。lesson――lessenで「時間割」を充てたのは山形訳だ、等々。先人の業績を踏まえつつ、新たなものを付け加えるという、「積み重ね」が、言葉遊びの翻訳にもようやく生まれてきたのが解る。好意的に解釈すればそうなるのだが、少し先人の借用が多すぎる。悪意に解釈すれば、オリジナルの言葉遊びの訳に対しての努力を怠っているようにも見える。もちろん、先人に対するオマージュであるとも考えられるが、訳者はキャロルについてあまり詳しくないようで、芋虫の言葉である"Explain yourself"のダブル・ミーニングにも、アリスと帽子屋の会話に出てくる"I don't think――" "Then you shouldn't talk."という、一種の言葉遊びにも気づいていない。裁判の場面でも、王が帽子屋に向かっていう"Take off your hat"の"your"がここで果たす役割に気づかず訳している。そう考えると、『アリス』という、慣れない対象を訳すために、先人の訳だけを参考にしたのではないか、『アリスの英語』や『翻訳の国の「アリス」』といった研究書を当たるという、基礎的な努力を怠って既成の訳に飛びついたのではないかとも勘ぐれてしまう。もちろん、訳者のオリジナルな言葉遊びの訳も少なくないのだが、少しバランスを失しているように思える
また、訳で一ヶ所気になったところがある。第七章の訳題を「くるくるティーパーティー」としている点。宗方訳の「くるくるパーティー」を下敷きにしているのだが、これでは単にmadの訳語に「くるくる」を充てたに過ぎなくなってしまう。宗方訳の掛詞による面白みを殺してしまうのは理解できない。「政治的に正しい」表現を使いたければ、「くるくる」を使う必要はないのだから。
先述したように、出版社があくまでシュヴァンクマイエルの本という姿勢で売ろうとしていることから、訳者の履歴についても記載がなく、訳者による後書きも解説もない。日本での出版契約の際に、原書にない余計なものを付け加えないということにでもなっていたのだろうか。理由は不明であるにしても、読者の側からすれば訳者の顔が全く見えないことになり、非常に不親切な本となっている。『不思議の国のアリス・オリジナル』などもそうであるが、この点、出版社には再考をお願いしたい。
かねてから評判の高かったトーベ・ヤンソン挿絵の『不思議の国のアリス』の日本語訳である。訳しているのは作家の村山由佳。話題性としては充分であろう。ヤンソンの挿絵が、まるで不思議の国がムーミン谷であるかのような趣で、帽子屋もスナフキンを彷彿とさせる。この挿絵だけでも購入の価値がある。装幀と印刷も美しい。また、後書きでキャロルの少女愛者説を「近年の研究できっぱり否定されている」と切り捨てたところも共感できる。
では、訳文の出来はどうか。一見して解るように、そして訳者が後書きで述べているように、この訳では地の文を話し言葉で通している。つまり北村太郎訳や矢川澄子訳の路線を目指している。事実、文体も北村訳と矢川訳の中間のような文体である。言葉遊びについては、先行訳の良いものは取り入れるという姿勢だ。そのため言葉遊びでは既視感を強く感じる。例えば鼠の長い尾話のところ。「お話」と「尾はなし」は、多くの訳書に見られる部分であり、取り立てて特徴がないのだが、"I had not!" "A knot?"の部分は「誰がそんなことゆったよ! ほっとけよ!」「え、結った? ほどけ?」と訳されている。これは前半が 山形訳で後半が柳瀬訳の流用だ。またMock Turtleを「ウミガメフウ」としたのも柳瀬訳を使っている。海の底の学校のlesson――lessenを「お勉強」(だから授業の時間数をまける)というのは、矢川訳を使っているのであろう。A Mad Tea-Partyを「くるくるパーティー」としたのは宗方訳を採っている。もちろん、訳者独自の言葉遊びの処理もある。例えば、このお茶会でのヤマネとアリスの科白"But they were in the well" "well in"というところは「井戸の中だったんでしょう?」「野中の井戸」と訳されている。微かに柳瀬訳の影響があるものの、オリジナルなギャグへと昇華させている。とはいえ、全体的に、旧訳へのオマージュといった色合いが強い。それは、『アリス』の翻訳の愛読者にとっては心地よいものであろう。
全体にお奨めの訳ではあるのだが、どうしても引っかかるのが登場人物の口調である。三月兔が江戸弁で、帽子屋が関西弁なのだ。ところが、三月兔の江戸弁はどうにも人工的な感じがするし、帽子屋の関西弁は、まさに「東京の人間が喋る、イントネーションのおかしな関西弁」といった感じ。少なくとも近畿の言葉を聞いて育った人間からは反撥があると思われる。むしろ、こういった妙な小手先の小細工は、しないほうがよかったのではないか?
挿絵、訳者の付加価値は当然あり、いくつかの留保付きであるものの、訳文も充分に楽しめる性質のものであることから、お奨めできる本とはいえる。ただ、どうしても「ファンが作った翻訳」、といった、一種の臭みは拭えない。
山形浩生がネットで公開している『不思議の国のアリス』の翻訳を本にしたもの。ネットでは無料で公開されているテクストであるが、出版物として流通させても、凡百の翻訳に比べれば出来の良いものであり、充分に商品価値を持っている。だが、それを認めた上で、いくつかの疑問点が残る。
特に大きな疑問点は、この翻訳を本にする際に「インターネットの書式を残す」部分と「インターネットとは違ったものを本にする」部分の選択がバランスを失していると感じられることだ。この本では各パラグラフが一行空けのスタイルになっている。これはインターネットでのテクストをブラウザで表示する時の、<p>タグによるパラグラフの表示形式である。およそ日本語の文章での段落の表示形式でもなければ英文小説でのパラグラフの表示形式でもない。横書きならまだしも、縦書きでのこういった書き方には疑問が残る(数字の表現についても、縦書きで算用数字という表記、なんでもメートル法換算といった点には疑問がある)。また、本という形式に移し替えた際に、本文と挿絵との連携を図るという試みをしているが、一部成功している部分もある(「DRINK ME」が、挿絵の形で「のんで」となっている)ものの、多くの場合やりすぎと云わざるを得ない。例えば第五章ではいもむしの科白の行頭すべてに、いもむしの絵が描かれているのだ。原作が、本文についてタイポグラフィ的な効果を追求している作品だけに、こういった余計な属性の付加は「なくもがな」であり、原作者を無視した行為ではないかと思われる。また、訳註についてもネットのものと同じであるのが気になる。特に問題なのは第10章で「With what porpoise?」の訳文を「うるせーな、ヤリィカ!」とした部分。訳としての出来不出来は措くとして、ここに付けた訳註が「うるさいうるさい、苦しいのはわかってるんでぃ!」。相互性のあるネットならともかく、漫画の欄外の作者の書き込みではあるまいし、読者としたら「だからどうした?」としか云いようがない。読者を「お友達」と誤解していないだろうか?
訳文は平易であり、「Curiouser and curiouser!」の訳を「チョーへん!」と訳したところなど、これ以上の訳語は現在考えられないのではないかとさえ思われる。しかし、自分が後書きに書いていることに引き比べて、本人の訳文は、ということになると疑問が残る。柳瀬訳
を「漢字だらけのおっかない訳」といいつつ、自身、海の底の学科では漢字におんぶした訳文であったり、本人がいうほどにアリスの科白が自然でなかったりといった点が見受けられる(小学校五年生が、授業を「コマ」で数えるとはとても思えない)。「Down the Rabbit-Hole」を「うさぎの穴をまっさかさま」と訳した点なども(アリスは頭を上にして落ちているのに)、語感としては不自然に感じる。また、解説の中でもキャロルを「ロリコンの変態」という、現在の研究では否定された俗説をそのまま垂れ流している。本人による後書きや解説など、訳文の評価について何ら影響を与えるべきではないのかもしれないが……。
ここで述べた点は、「蜀を望む」類の批判であるとは思う。しかし、本人が自信満々であり、世評も高い訳者であるだけに、訳文にも通常以上のレベルが要求されるのではないだろうか。
「お風呂で読める文庫100選」の中の一冊。この叢書は、「青空文庫」など、著作権切れ等自由な使用を認めている本文や翻訳を使用したシリーズである。本文は塩化ビニルの本文用紙に印刷され、それをプラスチックの背表紙がリング綴じをしている。耐水性のある素材を使用し、風呂の中で読めるようにした、そういう叢書だ。
本文については朝日出版社のものとほぼ同じではあるが、訳者の後書きは掲載されていない。また、イラストも全く入っていない。そのため、グリフォンの登場のところで、本文にある筈の「グリフォンがどんなものか知らない方は絵を見て下さい」という記述が削除されている。会話はあるが絵のない本ができあがったわけだ。
本当に風呂の中で本を読みたいという人はともかく、コレクターズ・アイテム以上の価値はない。
訳者は『翻訳の国の「アリス」』の著者。過去の翻訳の多くに目を通している。そのため、言葉遊びも、過去の訳で良いものは取り入れるという、柔軟な姿勢をとっている(第7章の「in the well」「well in」の部分は、不自然さが感じられるが、これをうまく処理している訳者は少ないので、大きな失点にはならない)。Tortoise-taught usの洒落を、「なぜ単にカメ先生って呼んだの」「担任だったからタンニンカメ先生」と訳したのは名訳だ。訳文も読みやすいものであり、ブライアン・パートリッジの挿絵も、非常に美しいものである。後書きでは、キャロルの本名を「ドッドソン」と、実際の発音に近く表記されているのも嬉しい。ただ一点を除けば、非常におすすめの翻訳である。
ただ、この本の翻訳については、大きな一点で異論がある。それは、登場人物の多くを、たとえば「ハッター」とか「ファイヴ」というように、原文の仮名読みですませていることだ。これは、訳者の「固有名詞である」という主張からそうしたということなのであるが、表札まで出ている白ウサギやチェシャネコ、明らかに擬人化されている「時間」については、そうなっていないなど、不整合も目立つ。ただ、ここではその不整合は問うまい。大きな問題は、「果たして固有名詞だから仮名にする」というのが正しいのか、ということだ。
確かに、近世以降の文学では、固有名詞は特定の人物を表す記号として使用されるため、国によって名前を訳す、ということは、通常ない。しかし、児童文学や、あるいは民話の世界ではどうか。あるいは、遙か以前のヨーロッパの伝統的な寓意物語の場合は。ここでは、「寓意性をもった一般名詞」を固有名詞的に使うという伝統がある。『不思議の国のアリス』でも、帽子屋は、確かに大文字で始まるHatterではあるが、その前に小文字の定冠詞がついて、必ずthe Hatterという形で表現される。「帽子屋」という一般名詞を、この物語ではたった一人しか出ないが故に固有名詞のように使っている。これは他の登場人物にもいえる。これら登場人物の名前は単なる記号ではなく、一般名詞の意味をべったりと貼り付けられているものだ。これは、日本で、たとえば「かちかち山」を考えると、兎や狸が、物語の中で固有名詞のように使われているのに似ている。もし固有名詞だから仮名書きということが正しければ、赤ずきんはロートケプヒェンでなければいけなくなるし、親指姫はデンマーク語で表記するのが正しいことになる。「かちかち山」を英訳するなら「Usagi」「Tanuki」でないといけないことになる。
実際、欧米では、そういった図式的な扱いをしてはいない。ドイツ語のRotkäpchenは英語ではLittle Red Riding-hoodであるし、Pippi Långstrumpは英語だとPippi Longstockingとなる(日本語ではピッピ・ナガクツシタと訳されている)。
もしキャロルが「固有名詞は訳さず表音表記」という姿勢を望んでいるなら、話は別である。しかし、キャロル存命中にキャロルの監修の下に出された独訳や仏訳でも、登場人物名は、ドイツ語やフランス語に訳されている。固有名詞だから仮名で表すという姿勢は、キャロル本人の意思にも背いていることにはならないか。果たして読者は「マーチヘア」と聞いて意味の解る、英語を知っている大人なのか、それとも英語なんか全く知らない子供なのか。
「固有名詞を仮名表記にする」というのは、近世文学以降の、人物を表す記号としての固有名詞の表記方法を、本来適用するべきでない童話の世界に機械的に当てはめたものではないか。もちろん、訳者の真摯な姿勢は理解できる。しかし、真摯に考えた結果「固有名詞を表音表記した」というのと、とりあえず「固有名詞だし表音表記しておこう」というものとは、出てくる時には全く同じ表現になる。そして「固有名詞だから表音表記しよう」から「固有名詞は表音表記しておけば無難だ」までは半歩の後退でしかない。訳者が後書きで書いている「いずれ固有名詞としてこのまま定着するだろうと見越して、モックタートルと訳しました」という言葉が、上記のような意味ではないことは充分に理解しているが、こういった危険性もはらんでいることは指摘しておきたい。
個人的に訳者の楠本先生とは親しくさせて頂いており、こういったことを書くのは非常に心苦しいのではあるが、自分の意見として、書いておきたい。
なお、訳者後書きに一ヶ所、事実の誤りがある。「フクロウとヒョウ」「あれはロブスターの声」の詩については、1897年版ではなく、1886年版から大幅に増補されている(その経緯について、1886年版の前書きでキャロルが説明している)。増刷の際に是非訂正して頂きたい。
『少女座』という雑誌の1987年9月号が『アリス』の特集を組んだ。題して『アリスの本』。この雑誌に創刊号からエッセイを連載していた矢川澄子、この号で『不思議の国』第一章を訳した。
『アリス』を女性が訳すとしたら、この人を措いてはいまい。言葉遊びの訳も水準以上だし(別宮貞徳の著作を読んだなと、ニヤリとさせられる所もあり)、「話し言葉」で本文を訳しているがその出来もすばらしい。「話し言葉」訳の第一号、北村太郎のものを遥かに凌いでいる。イラストはドゥシャン・カーライ。結構この絵にも味がある。
結構いい本ではあるのだが、文句がいくつか。まづ値段が高すぎる。どんなにいい訳でも5,000円じゃぁ人に薦められない。それと、原書の形式を忠実に守ったせいか本文が横書きだ。考え方が古いせいか縦書きでないと物語を読んだ気がしない。お金のある人は一冊持っていてもいい本と云える、平成初の『不思議の国』の訳。
出版社に文句を。『少女座』での訳文の終わりに「つづきは今秋発売の新潮文庫でどうぞ」と書いてあったので非常に期待していたのだが、出ない。待てど暮らせど全く出る気配がない。ようやく1990年の1月に出ると判った時には文庫の筈がA4ハードカヴァーで5,000円。まぁそれも我慢して待ってたが、まだ出ない。本屋さんに訊くと「発売が遅れて2月19日に発売です」との返事。結局本当に発売したのは1990年2月21日。およそ2年半待ったことになる。新潮社など二度と信用するものか。
上述の訳の文庫化。イラストは金子國義。値段も手頃なら訳も素晴らしい。その上イラストもよいということで、間違いなくお薦めの一冊。
完全に個人的な恨み言。この本が出版されたのは1994年。予告から7年後である。ええ加減にせぇ!
真打ち登場。この人と柳瀬尚紀氏を無視してアリスは語れまい。『アリス』、ノンセンス(ナンセンスではない、念のため)を語っては横綱と云えよう。どれだけこの人の訳を待ち焦がれたことか。
出版社は「殆ど趣味で本を作っている」新書館。イラストがアーサー・ラッカム。これだけ揃って悪い本が出来るはずがない。これが出た時点(1984年)では最高の訳。僕は『アリス』が読みたいという人に(絵がテニエルでないにもかかわらず)これを薦めたものです。
重箱の隅をつつくような文句を云わせてもらえれば、ネズミの尾話(言葉遊びの訳を検討する時、僕はこの部分をチェックすることにしている)、「尾話」にこだわり過ぎて非常に不自然になっている。こんなことをいうのも、他の部分が余りにも良く出来ているからだ(「タラはなぜタラと呼ばれているか」「タラコの親だから」。僕はこのギャグが大好きだ)。この人の訳でテニエルの挿し絵の『アリス』を見たいと思った人も多いだろう。
(2005.12.4追記)
同社の『鏡の国のアリス』出版に合わせ、高橋迪氏が訳文を見直した上で新装版が出された。この新装版は今までの版に比べ上質の紙を使用しており、印刷がよく映えている。カヴァーも新しくなり、造本としてのクオリティが高くなった。また、前の版の後で出された河出文庫版からの改訳となるので、「尾話」の問題点も解決されている。今までの本や河出文庫版を持っている方にもお奨めできる版である。
これは新書館の改訳にテニエルの挿し絵という、「夢の共演」。ところが読んでみて驚いた。非常に疲れる。読んで疲れる訳文でもないのに、と、不思議に思っていたのだが、どうも原因は二つありそうだ。
本が重い、これが第一点。河出文庫もかなり凝ったと見えて非常に上質な(厚い)紙を使っている。そのため、1ページの重さがかなりのものになる。それに各ページの下何分の一かを註のために空けてある。だからページ数が多くなる(本文のページ数がちくま文庫で173ページなのに対して、河出文庫では224ページ。挿し絵の量などのために単純に比較は出来ないにしても、この差は大きいと云わなくてはなるまい)。因みにこの本は東京図書版・註釈付き『不思議の国のアリス』より重い。ハードカヴァーなら最初から重いものという心積もりが出来ているので、重さはあまり気にならない。でも軽いはずの文庫でこの重さでは疲れてしまう。
次に、註釈が多い。もとの新書館版に比べて遥かに多くなっている。確かに註は有意義なものだが、あれは脚註であれ、割註、頭註であれ巻末の註であれ読むのにかなりのエネルギーがいる。あれだけの註を一々読んでいたら疲れて仕方がない。
訳文は平易。註釈なしでも充分楽しめる。「一般読者のための」というより「好事家のための」註が殆どなので、楽しみたい方は一旦註を全部すっとばして読んで、後から適当に註釈を楽しむ、そういう読み方をすれば疲れず、なおかつ楽しめるでしょう。
ついに出た、というのがこれを見た僕の最初の感想でした。あの柳瀬尚紀が『アリス』を訳した! この喜びはいかばかりであったか。
断っておくとこの本はリライトである。ここでは全訳のみを挙げることにしていたのだが、唯一の例外を認めて欲しい。
というのもこの本、児童向けのリライトのなかでは最高の出来と考えられるからだ。名作(特に『アリス』のような作品)をリライトで読ませることには反対なのだが、これは別。下手な全訳なんか読むよりこれを読む方がよほどいい。文体模写とナンセンス(ノンセンスではない、念のため)で知られた柳瀬尚紀、『アリス』を訳すに当たってあっと驚く新機軸をいくつも出してくれる。
まづアリスがネズミに話しかける「ウ・エ・マ・シャット」。これを今まではカタカナで表記して日本語の意味を( )の中に入れるというやり方だったが、どうもこれでは目障りだ。かといって、『アリス』の読者たるべき日本の子供がフランス語の解る道理もない。それで出てきたのが「ワタクシノ・ネコハ・ドコニ・イマスカ?」。外国訛の日本語を使うことによって、この問題をほぼ解決して見せた。
次に公爵夫人の話す格言。これを日本で有名な言葉のパロディでやってしまうことなど、誰が考えただろうか。それが何かは、読んでからのお楽しみ。
そして、最も大きいのは、Mock Turtleの訳名。このことについては河出文庫『不思議の国のアリス・ミステリー傑作選』巻末の横井司氏の解説にも触れられている。Mock Turtle Soupの材料たるMock Turtleを「海亀風スープの材料である海亀フー」と訳したそれだけでも、この本は記憶に留められてしかるべきであろう(どうも谷沢永一風になってしまった)。以降『アリス』を訳す人には「海亀フー」を取り入れてもらいたいものだ。
言葉遊びについては云うまでもない。語呂つき柳瀬尚紀の名人芸を鑑賞されたい。
イラストもいい。テニエルの亜流の感無きにしもあらずだが、とにかくアリスが可愛い。『不思議の国』に関するかぎり、テニエルの描くアリスを僕は好きではない。この絵は、少なくともアリスについてはテニエルのものより素晴らしい。ロリコンの人には一読をお薦めする。
ところで柳瀬先生、確か高橋康也氏との対談(『アリスの国の言葉たち』所収)で「『アリス』を『です・ます』で訳すことは僕にはできない。どうしても『だ・である』で訳すことになる」というようなことをおっしゃっていたように思うのですが、この『アリス』は『です・ます』体ではないですか?
……などと思っていた昭和62年にこの本が出た。「だ・である」体で訳した唯一の『不思議の国のアリス』、しかも全訳。その上今度はリライトの時ですらやらなかった「訳注を一切付けず、本文だけで解るようにする」というおまけ付き。挿し絵がテニエルでないのが少し寂しいが、河出文庫版と並んで邦訳『アリス』の決定版ということができよう。
なお、柳瀬尚紀氏はこの後リライトをもう二冊出しているが、集英社版を先に紹介したのでここでは触れない。
私事になるが、僕が最初に読んだ『鏡の国』がこれ。同じ角川の『不思議の国』を読んだすぐ後だけに、英語の洒落を日本語に直していることに驚きを感じた。「ここまでやるか?」という感じで。
後から考えると英語の言葉遊びを日本語に移すのが訳者の腕の見せ所で驚くには当たらないのだが、あの福島訳で『アリス』を知った人間には殆どカルチャー・ショックに近いものを与えた。そんなわけでこの本についてはつい点が甘くなる。
とはいえ文句もある。献詩、跋詩、それにチェスによる物語の進行図が総て省かれている。非常にこの本が気に入ってはいるが、この点だけで人に薦めるのを躊躇してしまう。
イラストはテニエル。かなり数を絞って載せている。表紙絵のみ和田誠。興味のある人は持っていてもいい本と云えよう。
同じ訳者の『ふしぎの国』に同じ。昭和の63年にもなって出す訳ではない。ひょっとして、言葉遊びを直訳して註で「○○と××との洒落」と指摘する人は、『アリス』でどんな英語の洒落が使われているか研究する人に対して訳しているのだろうか。もしそうなら、だれでもが手に取る文庫本に童話の文体で訳すなどということはやめて貰いたい。ハードカヴァーで南雲堂とか研究社みたいな所から出したらいい。それとも「ここは英語でこんな洒落になってるんだよ。日本語で読んでちゃ判らないだろうけどね」とでも云いたいのだろうか。それなら初めから訳してなんか貰いたくない。ちゃんと日本語で楽しめる訳が他にあるのだから。こんな訳が未だに出ているということが信じられない。
『不思議の国』の時にも触れたが解説が絶品(この解説を書いている高山宏氏は、後に『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』『おとぎの"アリス"』を訳すことになる)。本文のほうはどうも切れ味に欠ける。言葉遊びの処理が中途半端なのだ。1975年時分ならこれで良かったかもしれないが、今となっては「もっといい訳がありますよ」と人に云ってしまう。
同じ訳者の『不思議の国』と同じく、マクミラン社の彩色・愛蔵版の、キャロル没百年記念に合わせた翻訳。レイアウトについても『不思議の国』と同じことがいえる。理解は出来るのだが、横書きの本文というのは違和感が残る。総てのイラストが彩色されており、この点も『不思議の国』同様、イラストという点のみについては東京図書の『カラー版鏡の国のアリス』の役割は終わったと感じさせる。ただ、これも『不思議の国』同様にテニエルのイラストの輪郭を殺す結果になっているのが残念ではあるが……。
訳文は平易。特に癖がなく初心者向けといった感じがする。言葉遊びもかなり訳されており、そのために却って訳しきれなかった部分の訳註が目立ってしまう結果になったのが残念といえば残念。HattaとHaighaはボーシャ、ハーネルと訳されている。芹生訳以降、こういった訳語が増えるのは読む側も楽しくなる。それに、Nobodyの部分の訳し方は、多少の問題はあるもののこの訳が最高ではないだろうか。
訳がそれなりに良く、「かつらをかぶったスズメバチ」の挿話も収録されているものの、値段が高く、『不思議の国』同様にコストパフォーマンスは必ずしも高くはない。彩色された愛蔵版に興味のある人はどうぞ、といったところか。
岩波書店の『愛蔵版 鏡の国のアリス』を岩波少年文庫に入れたもの。本文が縦書きになり、イラストもテニエルのオリジナル版(白黒)を使用している。ただし「かつらをかぶったスズメバチ」挿話はこれには入っていない。とはいえそれは他の訳本も同様であるのでこれが欠点ということにはなるまい。結果としてコストパフォーマンスは大幅に上昇した。田中訳から45年にして、漸く岩波少年文庫に『不思議』『鏡』が揃ったことになる。
『ふしぎの国』同様、この訳も特徴がない。初めての人向きであろう。
『鏡の国』の跋詩は、原文ではアリス・プレザンス・リデルの折り句になっている。この訳では、完全な折り句にすることは出来ないが、かといって全く訳さないのも嫌だ、そういう感じで各連の頭の字を取っていくと「アリスよさらば」となるようにしている。中途半端とはいえ、この苦労は認められてよい。
それと、この訳で一つ忘れてはならないことがある。白の王様の伝令HattaとHaigha。この二人は『不思議の国』の帽子屋(Hatter)と三月ウサギ(March Hare)に通じているわけだが、大抵の訳本ではその面白味が出せていなかった。この本では二人の名前をボーシヤとサンガツとして、『不思議の国』に通じる面白さを出している(柳瀬尚紀が後に某氏也、卯茶義と訳しているが、ここまですると「やり過ぎ」のような気がする)。以降の翻訳で、この訳語が定着したらいいと思うのだが、どうだろうか。
マーチン・ガードナーの注釈付き『アリス』。そういうわけで読みにくい。ただし訳文の質は逸品(あの膨大な註さえなければ)訳文は読みやすいし言葉遊びも訳されている。そしてなにより凄いのは跋詩を完全な折り句にしたということ。各行の頭を取っていくと「アリス・プレザンス・リドル、ルイス・キャロル祈る」となる。もし註を取り払った版が出来たらマニアでない人にも薦められるのだが……。
訳文は読みやすい。洒落も訳されている。跋詩も各行の頭を取って行くと「アリス・プレザンス・リデルへルイス・キャロルより」となる、完全な折り句だ。しかし僕はこの本を「欠陥品」と呼びたい。
理由はたった一つ、「ジャバーウォック」だ。この詩自体の訳はそんなにひどくない。剰りに(ハンプティ・ダンプティによる)説明風に訳され過ぎて、意味の解らない言葉がなさ過ぎるが、これは我慢ができる。ところがハンプティ・ダンプティの解説の段になると無茶苦茶になってしまう。自分が訳した言葉を使っていないのだ。だからアリスが暗唱した詩とハンプティ・ダンプティが解説するものとがまるで別物になっている。自分で「日時計」と訳した言葉がハンプティ・ダンプティに意味を訊くときには「ウェイヴ」となる(しかもこの単語の英語はwabeなんだから、表記も疑問がある)し、他の単語にしても、意味を尋ねる時には原文の発音をカナで表すだけになっているものが多い。この部分を早急に何とかして欲しい。欠陥品を掴まされた者はたまったものではない。
注釈付き『アリス』の出版以降現在までで、最も大きい事件の一つは「かつらをかぶったスズメバチ」の挿話の発見であろう。今ではこの挿話を巻末に収録している原書もいくつか出ているが、邦訳はこの本のみ。
訳文は前の注釈付き『鏡の国』と同じ。さきの『新注不思議の国のアリス』でも触れたが、註そのものは注釈付き『アリス』の補足という色合いが強い。しかし『不思議の国』と違って、「かつらをかぶったスズメバチ」が収録されている唯一の訳本ということで、前の注釈本を持っていない人にも薦められる。
(追記)
「かつらをかぶったスズメバチ」挿話は1998年11月発売の脇明子・訳『愛蔵版 鏡の国のアリス』(岩波書店)にも翻訳・収録された。
これも『ふしぎの国』と同じく優等生の訳になっている。この訳本で気に入ったのが「羊毛と水」の章に出てくる「蟹を捕まえる」の訳。ボート用語ということで、今まではなかなか自然な訳語にお目にかかれなかったが、この本では「櫂をとられちまうよ」「貝はどこ?」という風に訳されている。この部分、今まである訳の中では最も巧く訳された例ではないだろうか。
ただし許せない点がある。チェスの図が巻末に持ってこられているのだ。後から見た方が解りやすいと思ったのだろうが、それこそ要らぬ気遣いだ。訳者の方針か編集の方針か知らないが、どうしてこんなことをしたのだろうか。
2005年10月に福音館文庫に入り、安価に入手できるようになった。チェスの図が巻末に持ってこられているのは福音館文庫も同様。
あの、怪訳『アリス』の『鏡の国』。今回は言葉遊びに多少の気を遣っている。とはいってもこれが中途半端。前回に比べ少しは進歩しているものの「これが詩人の訳かねぇ」と、首をかしげてしまう。例の「話し言葉による」訳文も、『ふしぎの国』の時ほどのパワーが感じられない。それと本文に「〜だよ」が多くて非常に耳障りだ。大体、話し言葉で「よ」をそんなに連発するとは思えないんだよ。訳としては失敗作と考えざるをえまい。もう少し練ってから出して欲しかった。
さて、『ふしぎの国』同様、この訳も取り立てて特徴がない。だが、少々気になる点もある。一つはHattaとHaighaの訳。確かに『ふしぎの国』との関連を暗示(いや、明示か)している名前ではあるが、そのままぼうし屋と三月ウサギという名前で訳してしまうことには疑問を感じる。
それと、チェスの進行図が省かれている。それでいながら巻末の解説では『鏡の国』がチェスを下敷きにしていることを説明しているのだから、なんとも無理を感じる。角川文庫版の場合は時代も古いのでまだ話が解るが、この訳は1992年のもの。問題があるのではないだろうか。
『不思議の国』と同様、この本も横書きである。おそらく挿し絵が大きなウエイトを占める原書の形式を忠実に守りたかったのであろうが、多少引っかかるものを感じる。
この訳も中山訳同様HattaとHaighaを帽子屋、3月ウサギと訳している。この点に対しては疑問のあるところだ。また、この本、原文の何カ所かが削除されている。言葉遊びの部分なので、もしそれが理由で訳していないとすれば問題ではなかろうか。
同じ出版社による『不思議の国のアリス』と同じく、ビニールパックの箱にはシュヴァンクマイエルの名前が大きく記され、小さく「著=ルイス・キャロル」と書かれている。訳者の名前は書かれていない。シュヴァンクマイエルの絵になる絵本として出版社は出しているのであろうが、物語を愛する者としては、この原作者軽視、訳者軽視の姿勢は、やはり引っかかる。ここでもシュヴァンクマイエルの本ではなく、訳書として見て行く。
『不思議の国のアリス』同様、この訳でも、過去の訳書から引っ張ってきている訳語が目立つ。特に「ジャバウォッキー」の第一連など、「どこかでみたような」という既視感が感じられるのではないか。訳者が専門でないが故に既成の訳を使う、それにより訳に安定感が出ているのは事実だが、その量の多さは、やはりバランスを失していると考えざるを得ない。
もともと訳者がキャロルを専門にしていないためであろうか、既成の訳をベースに独自色を出そうとした部分で、言葉遊びになれていないが故の悪手を指してしまうところが目立つ。例えば、白の騎士が兜の中に嵌り込んでしまう部分での. "I was as fast as ―― as lightning"という部分。ここで訳者は「ぴかりとはまっておったのです――稲妻のごとく」と訳し、アリスの指摘のほうで「それならぴたりと、でしょう」としている。これでは冗談の落ちを先に云ってしまうようなもので、キャロルの洒落が台無しだ。また、登場人物が「国語」の意味で使っているEnglishを、単純に「英語」と直訳したがために"Fiddle-de-dee's not English"という部分が「『すっとこどっこい』は英語ではありません」と訳されてしまっている(そりゃ英語の筈はない。日本語なんだから)。ハンプティ・ダンプティのマザーグースの訳にしても、各行を長い文で訳しているため、最後の行のみが長いというわけではなくなっている。そのため、アリスが「詩にしては最後の行が長すぎるわね」という言葉が意味をなさない。Hatta, Haighaはぼうし屋、兎ちゃぎと訳されている。おそらくは柳瀬訳をアレンジしたのであろうが、Hattaは、そのまま『不思議の国』の帽子屋と同じ訳語になってしまって、キャロルが名前のスペルを捻った意味がなくなってしまう。確かに久美訳では『不思議の国』では帽子屋、『鏡の国』ではぼうし屋と書き分けてはいるが、普通読んでいて、これを書き分けだと意識できるだろうか? やりすぎの感は大いにあるにせよ、柳瀬訳でわざわざ当て字を使った理由を訳者は理解できているのだろうか?
もう一つ気になった点として、『アリス』を知らないが故の誤訳がある。1897年版の前書きを訳出していることは大歓迎なのだが、その中のNursery 'Alice'について「子ども向けの「アリス」」(原文では「子ども向けの……」には括弧なし)としているのは誤訳を云わざるを得ない。Nursery 'Alice'が書名であることを理解していなかった、あるいは、既に訳書が出ていることを知らなかったのであろう。
やや些事にわたった批判ではあるが、訳文全体の出来は、柳瀬訳以降初めての「だ・である」体がシュヴァンクマイエルのイラストにも合い、細かい文句はあるものの、安定感はある。決して酷い訳というわけではない。原文ではアクロスティックになっている巻末の詩は、各連の頭を取って行くと「アリスとわたし」となるようにしている。芹生訳や矢川訳と同趣向であるが、努力は認められて良い。
ただ、シュヴァンクマイエルのみで売ろうとしている出版社の本作りの姿勢については、『不思議の国』同様、再考をお願いしたい。
評価する点も批判する点も、すべて『不思議の国』の時と同じといえる。
訳文と言葉遊びの処理は凡百の翻訳に比して、充分に高いものだ。ただ、『鏡の国』では、言葉遊びをはじめ、やや原文に頼っている部分が散見されるのが難と言えば難。本文中に英語のスペリングを挟まれるのは、読んでいて違和感がある。訳者自身が後書きで述べているように、『不思議の国』に比べこちらは漢字の割合が高くなっている。その結果、ジャバーウォッキーなどでは、「漢字だらけのおっかない」柳瀬訳を果たして批判できるのか、というレベルにまで漢字が使用されている。
キャロルの指定にないタイポグラフィ的趣向も、前回通り。今回気になったのは、第3章で列車が川を越すところに、波線が六つ、並んでいることだ。これはガードナーの註釈本の表記ではあるが、もともとのマクミラン版にはない。訳者自身後書きでProject Gutenbergやガードナー版をいろいろと付き合わせて訳したとあるが、ガードナーのオリジナルを、そのまま本に持ってくる形になってしまった。もっとも、これは訳者でなく挿絵画家の責任ではあるが(Web版の翻訳では、波線ではなくアスタリスクになっている)。ブラウザでの<p>タグの表現形式そのままの段落も前回通りである。
今回の翻訳で特筆するべきなのは、「かつらをかぶった雀蜂」挿話が、当初予定していた場所へ挿入されたことだろう。これにより読者は、当初キャロルの構想した順番通りに本文が読めるわけだ。作者がわざわざ削除したものを、もとの場所へ復活させることには批判もあるだろうが、この試みは認められてよい。ただ、この挿入については巻末で説明されているが、具体的に何ページの何行目からが挿入箇所であるか明記していないのは不親切だろう。一つの試みとして認められる行いだけに、この曖昧な記載は残念といえる。
さて、通常なら訳文に直接関係のない後書きの批評は翻訳評としてするべきではないのかも知れない。しかし、訳者が自分の訳文について自讃を含めた解説を行っている以上、後書きについての批評もある程度許容されるであろうと考えて、以下に、気になった部分を指摘する。
訳者は、他の翻訳について「下手」だとこき下ろした上で、高橋康也訳のジャバーウォッキーを批判している。批判について大きな点は、これが仮名のみで書かれているということである。仮名書きの功罪については、ここで論ずる積もりはない。問題なのは、高橋訳ですべて仮名なのは、最初と最後の連だけであることを伏せていることだ。これは高山宏の訳なども同様で、第一連のみすべて仮名書きにすることで、効果を出そうと工夫している。それに対する批判ならそれも問題ないが、本文における漢字と仮名のバランスを論じるに当たって、敢えてこの部分を詩全体から切り離して論じるのはアンフェアの誹りを免れまい。また、『別冊現代詩手帖』のキャロル特集に対する批判にしても、「あたりまえ」のことしか書いていないから「ゴミクズのかたまり」と断じている。訳者のいう「とっても頭が悪」い「ブンゲーヒョーロンカ」がここで書く前は、その「あたりまえ」のことが当たり前でなかったということ、彼らの文によって、今われわれが当たり前と思う内容が当たり前になったという、それこそ「あたりまえ」のことを、無視している(『別冊現代詩手帖』は現在ではその使命を果たし終えた、とか、今となってはすでに内容が古びている、という批判ならこれは批判として真っ当なものだろう)。たとえば、訳者が「あたりまえ」で「ゴミクズ」という『別冊現代詩手帖』と、訳者が大事だと思っている『不思議』と『鏡』の雰囲気の違いについての考察を読んでみよう。果たしてどちらが「あたりまえ」か。
この訳書のベースになっているプロジェクト杉田玄白の翻訳と解説は2000年に出ているが、それをほとんど変更せずに使用しているため(変更している部分では「かつらをかぶった雀蜂」挿話の発見年代が、なぜか1989年という、間違った年代に修正されている)、前回同様にキャロルが「ロリコン」だという俗説を垂れ流している(しかし、このロリコン説も、日本で有名になったのは、訳者が「ゴミクズ」と言っている『別冊現代詩手帖』の種村季弘の文なのだが)。
くどいようだが、確かにこの訳文は、充分に質の高いものである。そして、ここで述べていることが「望みすぎ」である可能性も否定はしない。しかし、やはり前回同様に、訳者がここまで自信を持ち、他の翻訳を下手と断じる以上、他の翻訳で許される部分でも批判されるのは仕方ないことであろうと考える。
また、新潮社だ。今回も一と月遅れ。まったく、何を考えてるんだか……。
この訳、ますます「話し言葉」に磨きがかかっている。『不思議の国』の時には「〜ね」というのが多少耳障りだったが、今回はそれほどでもない。そういう意味では北村訳と好対照だ。言葉遊びも結構上手に処理している(でも、Nobodyを「ダレモイマサン」は、ちと苦しいなぁ)。
折り句になっている跋詩は、完全には折り句に出来なかったようで、各連の頭を取って行くと「アリスわが愛」となる。が、自分の詩集の頭には(人から贈られたとはいえ)「ALICE SUMIKO」とやっているのだから、もう少し頑張って欲しかった。
HattaとHaighaはボウシヤ、ウサキチと訳されている。このほうが日本語として読みやすい。
全体として読みやすいし、挿し絵も味がある(ドゥシャン・カーライ)。値段さえ高くなければ薦められるんだけど、5,500円じゃねぇ……。
『不思議の国』同様、イラストは金子國義。値段も手頃であり、訳も申し分ない。間違いなくお薦めの一冊。
この訳者の美点は、翻訳を感じさせない透明な文体にある。直接、キャロル本人が語りかけてくるような、そういう文章だ。作者の語りかけを重視した翻訳としては、以前にも北村太郎の訳や矢川澄子の訳があった。これら二つの翻訳は、「語り」を文章化するために、話し言葉を地の文の訳に採用していた。安井訳では、そういった細工をしていない。典型的な童話の文体である「です、ます」体を使っている。しかし、その文を読んで感じられるのはキャロルの声なのだ。これはなまなかなことではない。一見、なんでもない文章の下に、作者の並々ならぬ工夫が伺われる。
言葉遊びも、ちゃんと日本語に訳している。巻頭の詩の最後に原文で「pleasance」という単語がある。これはアリスのミドルネームを掛けているのであるが、それを日本語に訳した例は、これを含めて三例しかない(あと二つは柳瀬尚紀訳の『鏡の国のアリス』と高山宏訳の『新注鏡の国のアリス』)。また、第二章の花とアリスの会話にある、bedがふかふかだから花は眠り込んでしまう、という部分、これを日本語に移した例は、『鏡の国のアリス』の訳書では、少なくとも自分の知る限りでは存在していなかった。そういった点は大いに評価するべきであろう。Haigha, Hattaの二人組については、Haighaは「ヘヤ」のまま、Hattaは「ボウシャ」と訳されている。言葉遊びの翻訳について、あえて難点をいえば、巻末の詩のアクロスティックについて註で触れているだけであるということであろうか。ただ、これについてはアクロスティックを日本語にした『鏡の国のアリス』が高山宏訳のものと石川澄子訳のものしかない、ということ、むしろキャロルの感情を訳出するために、敢えてアクロスティックを訳すことをしなかったという、訳者の意向があることなどから、難点というよりは敢えて「蜀を望む」類のものではあるが。
この訳書でもう一点特筆するべきなのは、原テクスト選択に際しての書誌的な正統性であろう。いわゆる流布本を使用せず、キャロルの存命中最後の版である1897年版を底本にしているのだ。そのため、1897年版以降削除された登場人物表(チェスの配置に見立てられていた)は訳註に移行されている。挿絵も、一枚を除き1897年版から採られ(残りの一枚は、初版から採られている)、原書の原寸大で印刷されている。印刷も良質の紙に映え美しい。原書ではアリスが小川を越える場面に三列のアスタリスクが印刷され、それが川を表しているのだが、マクミラン版の『鏡の国のアリス』では、最初の小川だけアスタリスクの数が5-4-5の三列で、あと五つの小川は6-5-6のアスタリスク三列となっている。これは初版でも1897年版でも変わっていない。この訳本ではちゃんとマクミラン版と同じ数が印刷されている。アスタリスクの数までちゃんと再現させた翻訳は、自分の知る限りこの訳書だけだ。1896年クリスマスとの記載のある前書きも訳されている。そして、原書の特徴でもある「仕掛け絵本」の部分も再現されている。アリスが鏡を抜ける部分の挿絵を実際にページをめくりながら見て頂きたい。また、第10〜11章の、アリスが赤の女王を揺さぶって猫にする部分、ここを、本文の印刷されているページをめくったり戻したりして、キャロルの工夫を感じて頂きたい。難を挙げるとすれば、本文領域の下に印刷された飾り模様だろう。これだけは原書には存在しない。『地下の国のアリス』でも本文領域の下に飾りが印刷されており、それと合わせる必要からこの訳書でも飾りを印刷したのであろう。充分に理解できることではあるが、残念といえば残念でもある。それともう一点。裏表紙に「M」のような模様があるのにお気づきだろうか。これは登場人物表を1897年版から外した時に、もともと表のあった位置(チェスによる進行図の前のページ)にはめ込まれた模様なのだ。この模様が邦訳で登場したのはこの本を措いてない。その点は評価できるが、もとあった位置に印刷されていないという点は残念だ。ただ、これはテニエルの絵とは違い、本文とは何の関わりもないものであるだけに、大きな問題とはいえないが。
書誌的な意味から、もう一点註記するべきこととして、本文に加えて「かつらをかぶったスズメバチ」の挿話も、この本には収録されている(当然、本文とは別立てである)。もともとキャロルがこの挿話をどこに入れる予定であったかを、この訳書の該当ページの縮小図を貼り込んで説明しているのも解りやすい。その上、訳文を実際に該当箇所に入れた場合にも自然に文が繋がるように訳されている。最近は「かつらをかぶったスズメバチ」挿話を訳出する訳書も多くなったため、以前ほどの希少性はなくなったが、うれしい附録であることには違いない。登場人物表やこの「かつらをかぶったスズメバチ」挿話の扱いでも解るように、底本を1897年版に置き、本文について書誌的な正統性を担保しつつも、そこに入っていない情報についても、日本語で読めるように工夫されている。
書誌的にも信用でき、読み物としても面白い、そういった訳書の出たことを喜びたい。
《註記》
この本を手に取った方はお解りのように、これも『地下の国のアリス』同様、私が関わっています。仲間褒めはしていない積もりですが、身びいきの出ている可能性は否定できません。とはいえ書誌的な信用については保証できますし、訳文についても、お奨めできるものであると思っています。レビューを出すに当たってはフェアにゆきたいと考えておりますので、この点についてあらかじめ弁明しておきます。
とりはこの人にとってもらう。「だ・である」体で訳した唯一の『鏡の国』。
『不思議の国』もそうであるが、訳者は「中学生以上」を対象に訳したそうだ。だからこそ余分な註を省くことも可能になったのだが、反面子供には薦められない。
もっとも、子供が全訳の『アリス』を読むかどうかとなるといささか疑問だ(向井元子氏によると『不思議の国のアリス』が「子供が読まない名作」ベスト3に入るそうだ。『不思議の国』ですらそうなのだから、『鏡の国』などリライトでも読まれるかどうか怪しいものだ)。それなら『アリス』を読み損ねた大人のための訳があったっていい。大人が(あるいは少しませた子供が)読む『鏡の国』としては、おそらく最高のものといえる。訳者をして二つの『アリス』を訳さしめるもとになった柳瀬尚紀の飼い猫、今は天国にいるトリケに読者は感謝すべきであろう(また谷沢永一だ)。
ところで一つ注文。『鏡の国』の跋詩の折り句だが、この訳では折り句に訳されていない。他の人ならともかく『シルヴィーとブルーノ』の献詩で「アイザ・ボウマン」を折り込んだ人がどうしてここではやらなかったのか。出来るならこの部分だけ訳し直してもらえないものか(『シルヴィーとブルーノ』の時にはアイザ・ボウマンを折り込んだ改訳を出したのだから)。
訳、原文、校正刷、マーチン・ガードナーによる解題・註、テニエルからキャロルへの書簡が収められている。
以前なら『鏡の国』に興味のある人に必ず薦めていたのだが、『新注鏡の国のアリス』が出版されて少し事情が変わった。上で云ったものは、原文を除き総て『新注鏡の国のアリス』にも収められているのだ。この本のみに収録されているのは原文(ガードナーの註付き)とキャロルの未発表スケッチのみ。複数の訳を比較するという意味はあるものの、「かつらをかぶった雀蜂」の挿話を読める唯一の本という価値はなくなった。
なお、筑摩書房『ルイス・キャロル詩集』にも付録として「かつらをかぶったアブ」という題で高橋康也氏の訳が収められている(ちくま文庫版の『ルイス・キャロル詩集』には入っていない)。
パヴィリオン・ブックスから出ているファクシミリ版を底本にしてそれの訳とAlice's Adventures Under Groundの軽装本(英語版)をセットにしたもの。本文の訳はお世辞にも素晴らしいとは云い難い(洒落が全く訳されていない)。Alice's Adventures Under Groundが日本語で読める、ただそれだけの本。訳がこれ一つだし原書を買う方が高くつく(ドーヴァー版は別だが)ので「やめときなさい」とは云わないが……。
(追記)
長い間品切れだったこの本だが、2002年12月に黒柳徹子の序文を新たに収録した上で「新装版」として復刊された。
(追記2――2005.2.18)
2005年2月に安井泉訳『地下の国のアリス』が新書館より発売された。それにより、この本が唯一のAlice's Adventures Under Groundの翻訳ということはなくなった。
Alice's Adventures Under Groundの翻訳として『不思議の国のアリス・オリジナル』が書籍情報社から出されているが、これは翻訳というよりは、むしろAlice's Adventures Under Groundと日本語訳による作品解説といったようなものであった。それに対し、この本は翻訳書としての『地下の国のアリス』である。その結果として縦書きという読みやすいレイアウトになったのだが、反面オリジナルの本の体裁からは離れてしまった。しかし、上質の紙を使用した上で紙の色を非常に薄い(一見、白と見まがうくらいに薄い)クリーム色にし、黒インクで文字やイラストを印刷しているため、目に優しく、非常に美しい本となっている。キャロルのイラストも彩色されている部分は原本同様に色刷りである。色刷りの部分は、現在残っているキャロルのイラストの色を再現したために線が濃いセピア色になっている。そのため、色刷りの絵だけが、やや浮いた感じになっている。とはいえキャロルにしても最初から褪色したインクで手書き本を書いたわけではない。レトロ趣味を謳ったり複写本を出すというのでない限り、本として出す場合には黒のインクを使用するのは正解といえる。その結果として色刷り部分のみ線がセピア色になってしまうのはやむを得ないであろう。装丁もきれいで、独立した翻訳書として見た場合には非常に良い造本といえよう。
「透明な翻訳」とはこういう訳文をいうのであろうか。通常、「名訳」と呼ばれるものには、どこかしら訳者の個性が出ていることが多い。逆に、そういった癖のない翻訳というのは、読みやすい反面、「食い足りない」ような感じが出てくる。この翻訳では訳者の体臭のようなものは全く感じられない。だからといって通り一遍の「癖のない翻訳」のような訳文でもない。敢えていえば「翻訳の存在を全く感じさせない」訳文なのだ。これは、英文が透けて見えるような翻訳というのではない。もしキャロルが生きていて、日本語で書いたとしたら、こんな文章になるのではないかと思わせる文である。言葉遊びについても日本語に移し替えており、自然に読める翻訳になっている。訳者は小学館『ユースプログレッシブ英和辞典』の編纂も行った英語学者。言葉そのものを専門とする訳者の美質が訳文に出た、そういった観のある翻訳だ。
読み物としても良質の読み物になっているが、同時にこの本は書誌的にも貴重な資料となっている。Alice's Adventures Under Groundは1886年に複写版がマクミランから発売されている。その際キャロルは本文に加えて「序文」とその追記、「復活祭の挨拶状」の三つの文と、「クリスマスの挨拶状」という一つの詩を収録した。今回の翻訳ではこの四つの詩文がすべて翻訳・収録され、本文についての「完全版」となっている。
さらに書誌的な話を続けると、Alice's Adventures Under Groundの最終ページにアリスの写真が貼られていたことは有名であるが、その写真の下にはキャロル自筆によるアリスの似顔絵が描かれていた。また、1886年のマクミラン版では、アリスの写真はなく、「THE END」の文字に置き換えられていた。訳者は大英図書館で実際にキャロルの手書き本を調査したことがあり、解説ではその経緯と結果、特にアリスの写真の貼られたページと最終ページについての秘密が詳しく、解りやすく書かれている。
また、この本で註記すべきなのは、キャロルの本名であるDodgsonを「ドッドソン」と、実際の発音に即して表記したことだ。今までも、実際にはドドソンあるいはドッドソンである旨に触れた解説があったが、通常使われている「ドジソン」を使わず、ドッドソンで通した点は、記憶されてよい。
敢えて蜀を望む点を挙げるなら、この本にはキャロル自筆の「Alice's Adventures Under Ground」の中扉とその裏の「A Christmas Gift to a Dear Child in Memory of a Summer Day」と書かれた部分が本文として収載されていないことであろうか。英語の複写本ではなく、日本語としての『地下の国のアリス』を出す以上、すべてが英語の中扉をそのまま掲載するのは、却って全体から浮き上がってしまうと思われるだけに、この要求が無い物ねだりであることは充分に理解しているのだが……。
普通にAlice's Adventures Under Groundを読んでみたい人、専門的なことを知りたいマニア、どちらの読者にもお奨めできる本だ。
《註記》
この本を読んだ方はお気づきでしょうが、1886年版の資料提供者として私の名前が謝辞に出ております。私もほんの少し関わっているわけで、自分が一部とはいえ関係した本をここで褒めていることになります。本レビューで、いわゆる「仲間褒め」をした積もりは一切ありませんが、無意識のうちに身贔屓が出ている可能性は否定できません。しかし、私としては本の構成、解説など、これこそ自分の読みたかった『地下の国のアリス』だと、本心から思っています。訳文の見事さについても同様です。レビューを出すに当たってはフェアにゆきたいと考えておりますので、この点についてあらかじめ弁明しておきます。
これはフランス語訳からの重訳。酒寄進一訳『不思議の国』もそうだが、わざわざ英語の本を別の外国語に訳したものを底本にする理由が解らない。ひょっとして、この出版社の方針なのだろうか。
訳文は結構読みやすい。横書きというのが少し引っかかるが、それは挿し絵に合わせたせいであろうか。その挿し絵であるが、テニエルのものではない。なかなか味わいがあるのだが、ことこの話についてはテニエル以外の絵(というか、もとの本以外の形式)が果たして良いものであろうかという疑問がある。この訳にしてもこの話の「しかけ絵本」なところが犠牲にされている。
訳、挿し絵ともに「興味のある人にはどうぞ」といったところであろうか。
タイトルこそ『不思議の国のアリス』のようになっているがNursery 'Alice'の翻訳。「編訳」とあるのは一部省略されている部分があるため。
彩色されたテニエルのイラストを主体にして、それにキャロルが文を付けてゆく、とでも表現したいような「絵」と「文章」の絡み合いの妙がNursery 'Alice'の特徴に挙げられる。この訳ではイラストがテニエルではなく、同じ新樹社版の楠悦郎訳『不思議の国のアリス』で使用された作場知生の挿絵が使われている。『不思議の国のアリス』の挿絵をそのまま使うという点では、キャロルと同じ行き方をしたともいえるが、そのかわりにテニエルの絵を前提とした記述(キツネノテブクロの講釈や陪審員の説明でテニエルの名前を出しているところ)が省略されている。しかし、困ったことにそれが中途半端で、イラストに関わるかなりの部分が原文に忠実なのだ。さすがに第一章で「ウサギが震えている」部分は、絵のある場所を指定して「ほんのカバーをちょっとゆすってごらん」とある(実際にはウサギの絵は章扉)が、イラストがすべて白黒であるため、絵の説明でキャロルが一所懸命色について説明している意味が解らなくなっている(これは他の章も同じ)。また、チェシャ猫のところでは「ページの縁を持ち上げるとアリスがニヤニヤ笑いを見上げている」部分が(当然、イラストが違うために)なく、単純に「よくみてごらん。ほら、アリスがにやにやだけをみてるでしょ」となっている。ところがそんなイラストはなく、あるのはチェシャ猫をアリスが見上げている図のみなので、訳文が全く訳の解らないものになってしまっている。気違いお茶会の場面でも、キャロルが三月ウサギの頭に着いている藁の説明をしているがイラストに藁がないし、ティーポットがテニエルと違って帽子屋のそばにあるため、三月ウサギのミルク入れがティーポットの陰に隠れている、という説明が意味をなさなくなっている。また、イラストでは黒で無地のボウ・タイをしている帽子屋が、本文の説明ではテニエルのイラストにある「赤の水玉の黄色いネクタイ」となっている。バラをペンキで塗っている絵では、本文とバラの数が違ってきているし、エビのカドリールでは、該当する挿絵がない。
要するに「本文と挿絵が絡み合っている」というNursery 'Alice'の特徴を、この訳では全く活かし切れていないのだ。訳文は悪くないが、中途半端に原文に引きずられてしまった結果であろう。イラストをテニエルのものと差し替えるなら、いっそ、本文もイラストに添って大幅に変更するべきではなかったか。一般の翻訳では許されないことではあるが、ことこの本の翻訳ではそうした行き方こそ、キャロルの望むものではないだろうか。「編訳」とした以上、それだけの大鉈を振るうことも可能と考える。
大判であり、サイズ・ページの割り振りともに原書の形式を忠実に訳(?)している。E.G.トムソンの表紙絵を使っているのはこの訳だけ。訳文も悪くない。但し一つだけ文句がある。第9章のキツネノテブクロの説明、普通に訳しただけでは何のことか判らなくなる。何とかならなかったものか。
昔この本は小さな判で売られていた。大体が趣味で本を作っているといわれる新書館、訳文の素晴らしさと相俟って、それこそ宣伝文句にある「『アリス』の小さな、かわいい『いもうと』」であった。ところが慣れない商売っ気を出したのか新装版を出した。
この本確かに訳文は悪くない。でも、何を考えたのか元の本にはない挿し絵(『不思議の国』からとったもの。当然、色が着いていない)を入れるは、勝手に挿し絵の色を抜くは、無茶苦茶である。大体『子供部屋のアリス』というのはオールカラーが特徴の一つだったのに何でこんなことをするのか。アリスなら「余分な絵が入っていて、元の絵の色の着いていない『子供部屋のアリス』なんて、一体何の訳に立つのかしら」とでも言いそうだ。是非とも旧版の復活を望む。
「楽しく学べる生きた外国語」シリーズの1冊。岩崎訳『不思議国のアリス』の項でも触れたが『アリス』を材料にした英語の参考書。
内容は『不思議の国のアリス』を筋を追って紹介していきながらそこの英語を解説。単に文だけで解りにくいところは図で説明している(『アリス』の児童向けのリライトで必ずといっていいほど間違うクロケーとクリケットの違いについても説明がある。ちゃんとルールまで!)。読解の助けをする本であるから、当然、読みとりにくいところを「ここは……で」と説明してある。自然、今までの訳本の誤訳を指摘することになり『アリス』版『欠陥翻訳時評』の観を呈している。『不思議の国のアリス』を英語で読むには絶好のガイドとなろう。
また、単に『アリス』の原書を読み解くだけではなく、英文解釈・英文法の参考書としても質が高い。普通の参考書に飽きた受験生が受験勉強の合間に読んだら、成績アップ間違いなし。僕はこの本であの「仮定法」が解った。英語に苦しむ高校生で『アリス』が好きという人は「英語がこんなにも楽しいものか」とびっくりすること請け合いだ。
(追記)
長い間品切れであった本書であるが、2004年8月にちくま学芸文庫から復刊された。
二つの『アリス』を各章ごとにストーリィ紹介。普通だとつい見落としがちなところを指摘してくれる。これだけでも読めるし、『アリス』を読みながらの副読本としてそばに置いてもいい。'Alice's Adventures Under Ground'に出てくる(『不思議の国』では書き替えられた)「ネズミの尾話」も載っているので興味のある向きはご一読を。