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「アリス」邦訳ブックレビュー


※ ここでは、原則として現在流通している全訳をすべて納めることを旨とし、現在流通していない訳書も出来る限り記載した。
 なお、Amazon.co.jpアソシエイトプログラムにより、現在入手可能なものはAmazon.co.jpを通じて購入可能なようにしています。

Alice's Adventures in Wonderland

『アリス物語』菊池寛・芥川龍之介共訳 真珠書院パール文庫

 まさか元版刊行から87年も経って、この本が再刊されるとは。それも、一般向けの書籍になって。昭和2年、「小学生全集」の一冊として予告されたこの訳は訳稿を途中まで残して訳者の芥川龍之介が自殺、残りの部分を菊池寛が訳して、その年に発売された。一度小学生全集の中で再刊されたが、その後、2009年に『不思議の国のアリス〜明治・大正・昭和初期邦訳本復刻集成』の中で復刻されるまでこの訳が再刊されることはなかった。復刻されたとはいえ、『不思議の国のアリス〜明治・大正・昭和初期邦訳本復刻集成』は研究者や図書館向けのものであり、一般の読み物として出されたわけではない。そういう意味で、一般向けにこの訳が出たのは「小学生全集」以来ということになる。
 出版元の真珠書院は明治書院の子会社で、学習参考書や明治書院発行の教科書の教科書ガイドを出している出版社。本書の出ているパール文庫は、戦前の作家による物語を現代仮名遣い、新字体にし、現代風のイラストをつけて刊行している叢書である。小酒井不木の『少年科学探偵』や、本書と同じく「小学生全集」に収められていた菊池寛訳『小公子』等が収められている。
 本書もまたこの叢書の体裁、すなわち本文を新字体、現代仮名遣いで収録し、現代風のカバーイラストと挿絵を配しての出版だ。
 訳者が芥川と菊池であることから、訳文の日本語としての読みやすさは文句のつけようがない。瀬田貞二がこの翻訳を褒めたというのも頷ける。九十年近く前の訳であるだけに時代色は着いているものの、現代の、多くの翻訳の中においても決して見劣りはしない。
 しかし、今の時代の眼からこの翻訳をみた場合、資料的価値を除いて純粋に新刊の翻訳読み物とするなら、その内容に首を捻らざるを得ない。それには大きく二つの理由がある。一つは言葉遊びの翻訳の問題、二つ目は本文の省略の問題だ。もともとこの訳は、芥川の死後、出版を急いだと思われる節がある。そのため、じっくり時間を取って出版していれば本文に現れていなかったろうと思われる問題点が、そのまま出版されているのだ。上記二点は、それが表面に現れたものといえる。
 言葉遊びの翻訳については、日本語の言葉遊びに移し替えたものと、英語をカタカナで表したもの、日本語で言葉遊びを解説したものと、三種類の処理が混在している。
 省略の問題についてはもっと深刻で、巻頭の詩が訳されないのは仕方ないにしても、第9章ではマクミラン版原書で26行分、10行分、28行分、15行分の削除があり、第10章では154行、ページにして7ページ分の削除がある。全訳が当たり前の現在、これは受け入れられる限度を超えている。
 叢書の性質上仕方ないのであるが、この本には元の小学生全集にあった菊池寛の注意書きが収録されていない。この注意書きは、なぜ共訳という形になったか菊池寛が説明しているという意味で重要である。確かに解説では少し触れているが、書誌的な興味で買うとするなら、注意書きがないというのはマイナス要因となろう。
 現代の読者が純粋に読み物として読むには、上記理由から問題がある。むしろ芥川や菊池に興味を持った一般読者が「隠れた翻訳」として読むような本ではなかろうか。そういう意味では、パール文庫から出たことは良かったのかどうか。悩ましいところではある。

『芥川龍之介・菊池寛共訳 完全版 アリス物語』澤西祐典訳補・注解 グラフィック社

 昭和二年に刊行された小学校全集の菊池寛・芥川龍之介共訳『アリス』物語は本文に大幅な省略があり、現代の読者が『不思議の国のアリス』の翻訳として読むには適さない。この本は、その省略部分を補筆し、元の訳にあった明らかな誤訳のいくつかを訂正したものだ。もちろん、こういった補筆・訂正箇所は注で示され、元の訳を復元できるようになっている。いわば、シューベルトの「未完成」に補綴を施し、演奏・録音したような(実際、そういう録音は存在する)試みといえよう。全くの創作ではなく、原文があることが、この試みを可能にしたといえる。結果として時間を隔てた三者共訳となったともいえる。とはいえ、「完全版」と謳ってはいるが、巻頭の詩は訳されていない。本文中の訳の補筆とは違い、一篇の独立した詩をまるまる訳してしまうのは補筆の範囲を越えるとの判断であったのだろうか。本文の版面で、元の訳と変えている部分に鼠の尾話がある。小学生全集版では縦書きで、全文が見開きに収まらないためページを繰る必要があり、結果としてこれが尻尾の形になっていると意識しにくいものであった。今回はこれを横書きにして、半ページに収まるように配置、ちゃんと尻尾に見えるようになっている。この部分、元の訳にあった誤訳を修正しているが、裁判を「裁判遊び」と解釈している部分については元の訳のままになっている。それについては疑問がある。
 この本では三十数ページにわたる注釈がある。面白いのは、この注が原書に対する注というよりは、元の訳に対する注になっているということだ。通常、翻訳書の注は原文の説明やどう訳語を選定したかというもの、あるいは原文に書かれている内容で、日本の読者に解りにくいと思われる部分を解説するものが一般的だ。特に『アリス』の場合、前者は言葉遊びについて、後者はアリスの周辺の人物や当時のオクスフォード、ヴィクトリア朝の社会についての解説になる。この本でもこういう注があるのだが、基本的には元の訳との関係で語られる。あくまでこの本の注は『不思議の国のアリス』の原書に対する注ではなく、菊地・芥川訳『アリス物語』のテクストに対する注である。近代日本文学の一冊として注解者がこの本をとらえた上のものであり、注を読む時にはこのことを意識しておく必要があると思われる。
 本書には菊地・芥川による訳とその注以外に解説と「文豪たちのアリス――"お饅頭"はどこからやって来た?」がある。後者は読み物として面白く、未完の戯曲「トランプの王(仮)」の紹介等、非常に興味深いものになっている。一方、前者の解説では芥川と菊地の執筆範囲について「いまだ決着はついていません」としているのが残念。仮説でいいので、注解者の説を読んでみたかった。また、前者でこの訳が楠山訳を下敷きにしていることを書きながら、後者では複数の下訳者の存在を主張することにも疑問を感じる。もちろん、その可能性は否定しないが、そうなると、楠山の訳を下敷きに複数の下訳者がそれをリライトし、それをベースに芥川と(その死後)菊地が訳文を作ったということになる。工程としては不自然に思われる。また、複数の下訳者の存在の根拠が訳文中に見える文体の違いであるとするなら、それは下訳者によるものなのか、芥川が筆を入れたために生まれたものであるか、という疑問も生じる。下訳者の存在を完全に否定することは出来ないし、たとえば、芥川の死後に菊地が残りの部分を下訳者に訳させて、自分はそれを添削したという可能性はないとはいえないが(ただしそうすると、今度は、下訳まで入っていながら、後半に見られる大幅な本文の欠落はなんなんだ、ということになるが)。
 挿絵はマーガレット・タラント。これは解説にもあるように小学生全集版の平澤文吉の挿絵に影響を与えたものであるということから。カラーで非常に美しい。
 巻頭の詩を措くとして「完全版」になったということで、一般にも薦められる本になった。訳文自体が古いこともあり、最初の一冊ではなく、既に他の訳で読んだ読者に、次の一冊の候補として。


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『不思議の国のアリス』福島正実・訳 角川文庫

 ひどい、『アリス』の持ち味の言葉遊びが全く訳されていない。一応『アリス』は童話だよ。訳語の横に元の英語をカタカナで振って、(○○と××のもじり)という註を入れたような本を子供が喜ぶとでも思っているのだろうか(余談ですが、柳瀬尚紀氏馬鹿にするところの「トートイスの訳本」とはこれのことです)。確かにギャグ以外のところは読みやすいし、僕が最初に『アリス』を読んだのはこの本だから悪口は云いたくない。でもねぇ、ギャグと言葉遊びが命の『アリス』であれじゃあ、庇いたくても庇えない。
 訳しているのが日本SFの恩人で、挿し絵が和田誠(なかなか味わいがあります)だから、そういう方面に興味のある人にはいいかも知れない。けれども初めて『アリス』を読む人には薦められない。

(追記)
2010年2月25日、角川文庫版の『不思議の国のアリス』は河合祥一郎訳へ改版された。現在、福島正実訳の『不思議の国のアリス』は流通していない。


『不思議の国のアリス』河合祥一郎・訳 角川文庫

 福島訳から新たに改訳された『不思議の国のアリス』。
 この訳の凄いところは、原書の詩を訳す際、すべて脚韻を踏ませていることと、ほぼすべての言葉遊びを日本語にしていることだろう。しかもその自然さたるやひょっとすると、高橋訳柳瀬訳をも凌いでいるといえるかも知れない。例を出してみよう。多くの訳者が挑戦しつつ、つい不自然になる、「尾話」の部分である。

「では、いまだに尾を引いているいざこざがどうして起こったのか、お話しをしよう。長くて悲しいよ、こいつは!」とネズミは言い、アリスのほうを向いてため息をつきました。
「ほんと、長い尾だわ。」アリスはネズミのしっぽをほれぼれと見おろしながら言いました。……

 あるいは次の「A knot!」の部分。

「くねくねなんかしていない! 君が聞いていないから待っているんじゃないか」と、ネズミはとても怒って、きんきん声でさけびました。
「わたしが聞いていないと、からまっているんですって!」

 いかがであろうか? こういう独自の工夫は他にも見られる。たとえば、"Take care of the senses and the sounds will take care of themselves."の訳。ここで訳者は「意味に心を。心があれば「音」も自然と「意」になる」と、漢字(会意文字)を使った言葉遊びとして訳している。この「音」+「心」=「意」というのは、高橋康也がsoundsenseというジョイス語を背景に、「意」を「音」と「心」に分けたことへのオマージュともいえる(高橋康也・井上ひさし「戯作東西」〈『アリスの国の言葉たち』新書館所収〉参照)。A mad tea-partyでの"I don't Think――" "Then, you shouldn't talk"の部分を、ちゃんと言葉遊びとして訳しているのも、細かいところであるが、素晴らしい。
 もう一点、訳文で特筆するべきは、Caucus-raceを「党大会レース」と訳したことだろう。この部分は、ついつい訳者が「腕を振る」ってしまう部分であるが、caucusを素直に「党大会」と訳したというのは、訳者の見識である。そして、もう一点、特筆するべきは、本文の最後の部分の訳だ。『不思議の国のアリス』の原文は、お姉さんの回想のあと"happy summer days."という言葉で終わる。本文を締める言葉として、この部分だけは日本語でも原文の語順通りにこの言葉で終わってこそ余韻が残る。この訳では、ちゃんと本文は「そしてあの幸せな夏の日々を」という言葉で終わる。言葉遊びの訳ではないが、この部分、キャロルがこだわって書いたと思われる部分であるだけに、この訳者の工夫はなにものにも代え難い。
 訳については、いくら述べても言葉が足りないが、言及はこれくらいにする。福島訳はその後書きで、岩崎訳からの改訳となったことについて、翻訳には寿命があるという意味のことを述べていた。だから新訳になる意味があった、と。今回、その福島の言葉が自分の訳に適用されたといえるだろう。寿命を終えた福島訳に対し、新たに河合訳が登場したのだ。
 次に、「本」としてのこの本の特徴であるが、パロディ詩に関する使い勝手の良さが挙げられる。パロディ詩すべての元ネタの訳こそついていないが、それぞれの詩について、楽譜が掲載され、しかも本文中の訳詞が、そのまま歌える形で音符に振られているのだ。
 一点、難を言えば、グリフォンの初登場場面。本文では原書通りに「みなさんは、グリフォンがどんなものか知らなければ、絵を見てくださいね」とあるのだが、グリフォンの絵はこのページになく、ページをめくったところで出てくる。この点、訳者ではなく編集者のミスと云わねばなるまい。
 ともあれ文庫本として、最新の訳書としての訳者の工夫の詰まった力作といえよう。


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『新訳 ふしぎの国のアリス』河合祥一郎・訳 角川つばさ文庫

 この本は角川文庫の河合訳を底本に、子供の読者のために漢字を仮名に開いたり、一部の言い回しを易しく書き直しているもので、内容そのものは角川文庫版と変わらない。但し、年少の読者への配慮ということもあり、パロディ詩の元ネタやその楽譜は削除されている。そういう点で、大人の読者とすれば、角川文庫のほうが持っているべき本ということになろう。
 この本と角川文庫の比較では、挿絵という点が大きな要素となろう。テニエルのイラストではなく、okamaによる描き下ろしが採用されている。絵はいわゆる「アニメ絵」のタッチで、「大きなお友達」が好きそうな絵ともいえる。この点で好き嫌いが分かれるかも知れない。しかし、テニエルの影響を受けながらも、映画やアニメで見られる構図を採用したことは評価するべきであろう。絵のタッチ以外に、この挿絵で一点評価したいところがある。それはネズミの「尾話」の部分。これは、アリスがネズミの尻尾に気を取られていたため、ネズミの身の上話まで尻尾の形になってしまうという部分であるが、子供には、活字を組んでネズミの尻尾の形にしているということが解りにくい。それで、この本では詩の背景にネズミの尻尾のシルエットを配し、タイポグラフィ的なこの「尾話」の形がはっきり解るように工夫されている。新たなイラストを採用する以上、何らかの工夫はあるべきであろうし、その点で、こういった工夫は嬉しい。
 一点、本文とイラストの関係で気になったところがある。グリフォンの初登場場面。角川文庫版と同様に、本文では原書通り「みなさんは、グリフォンがどんなものか知らなければ、絵を見てくださいね」とあるのだが、実際のグリフォンの絵は3ページ先まで出て来ないのだ。これは訳者の責任でもイラストレーターの責任でもなく、入れるべき絵を入れるべき場所に入れるということを失念した編集者の責任であろう。  子供向けの叢書に新たな訳が加わったことを喜びたい。


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『不思議の国のアリス』福島正実・訳 立風書房

 訳は角川文庫と同じ。つまりはお薦め出来るものとは云えない。この本で「売り」というとチャールズ・ロビンソンのイラストということか。とはいえ、それだけのために買う価値があるかどうかだが……。


『ふしぎの国のアリス』高杉一郎・訳 講談社文庫、講談社青い鳥文庫

 これも似たりよったり。角川のはまだ訳者、挿し絵の付加価値があったが、これにはそれすらない。『パズルランドのアリス』を訳した市場泰男氏によれば角川文庫版旺文社版、この講談社文庫版の三つを比べた中で最も優れているそうだが、とんでもない話である。

(2008年6月1日追記)
 2008年5月31日に新装版が発売された。挿絵は従来のテニエルから山本容子に変更された。

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『不思議の国のアリス/鏡の国のアリス』高杉一郎・訳 講談社

 これは高杉訳の『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』を一冊にしたもの。他社では同時期の出版や訳者を代えた改版で複数の訳者の翻訳が出版されることが珍しくないが、奇妙なことに講談社は全訳に関する限り高杉訳のみで、新たな訳を出してはいない。
 この本の特徴といえば、二つの『アリス』が一冊になっていることであるが、挿絵や装丁が面白い。北澤平祐による挿絵は挿絵風とも漫画風ともいえる絵で、装丁では表紙・背表紙、カバーの表紙・背表紙部分とも「不思議の国のアリス」の文字と「鏡の国のアリス」の文字が180度回転した(上下逆になった)形で配置されている。カバーの折り返しの紹介文も『不思議の国のアリス』の部分と『鏡の国のアリス』の部分が上下反対になっている。本としては非常に魅力的だ。ちょっと面白いのがカバーの裏表紙折り返しにキャロルの紹介だけでなく、チャシャー猫の自己紹介が載っていることであろうか(ご丁寧に1865〜と生年表記まである)。
 ただし、訳文自体は高杉が亡くなっていることもあり、変わっていない。ただ、講談社文庫では訳者の判断で巻末に置かれていた巻頭詩が、ちゃんと巻頭に置かれたのは改良点といえよう。巻末の解説も、『不思議の国のアリス』の高杉の訳者あとがきが使われている。テクストだけで言えば、全く新しいものがない。

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『不思議の国のアリス』多田幸蔵・訳 旺文社中学生・高校生必読名作シリーズ

 比較的言葉遊びを訳してある。とはいえ中途半端の感なきにしもあらず。初版が1975年なのだが、この時点ではかなりのレヴェルであっただろう。
 しかし、それだけなら大したことはない。この本での一番の価値は巻末の解説。これと『鏡の国』巻末の解説とはルイス・キャロルに興味のある人必読であろう。
 ただし文句がないわけでもない。テニエルの挿し絵を全部入れてあるのはいいのだが、チェシャ猫が消えるところの絵、もう少し配置しようがあっただろうに。


『ふしぎの国のアリス』田中俊夫・訳 岩波少年文庫

 子供の頃に誰でもお世話になった岩波少年文庫。これの『アリス』はなかなかの出来。文が読みやすいし言葉遊びの扱いもうまい。お馴染みのネズミの尾話、「長くて悲しいのを」「確かに長い尾ねえ」……。この部分、おそらく今ある『アリス』の訳で最高であろう。この部分だけでも一読の価値あり。

(追記)
2000年6月16日、岩波少年文庫版の『不思議の国のアリス』は脇明子訳へ改版された。現在、田中俊夫訳の『ふしぎの国のアリス』は流通していない。


『愛蔵版 不思議の国のアリス』脇明子・訳 岩波書店

 マクミラン社から出た彩色・愛蔵版の『不思議の国のアリス』をキャロル没百年記念に翻訳したもの。原書では挿し絵と本文の配置を極力初版本に合わせてレイアウトしている。それに合わせるため翻訳も横書きとなっている。理由は解るものの、縦書きでないことが気になる。
 テニエルによる挿し絵が総て彩色されているので、彩色されたイラストという点だけから考えれば東京図書の『カラー版不思議の国のアリス』の意味がなくなってしまった。彩色されたイラストは、それ自体オリジナルな絵と考えれば美しいものではある。だが、テニエルの絵として考えると、元の絵のはっきりした輪郭線がなくなってしまっているので妙にぼやけた印象が残る。
 訳文は読みやすい。言葉遊びにしてもかなりの部分が日本語に直されている。先人の訳でも面白いと思ったところは取り入れ、オリジナルな訳もそれなりに工夫している。そのため、たまに出てくる訳註が目立ってしまう結果になってしまったのだが……。
 かなり素直な、初心者向きの訳だと思う。全体に悪い本ではないのだが、やや値段が張り、コストパフォーマンスが必ずしも高くないので、彩色されたイラストに興味があるという人以外には、特に強く薦めようとは思わない。

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『不思議の国のアリス』脇明子・訳 岩波少年文庫

 『愛蔵版 不思議の国のアリス』の翻訳を岩波少年文庫に入れたもの。愛蔵版と違ってイラストは白黒、文章も縦書きになっている。コストパフォーマンスは大幅に向上した。ただ、わざわざ田中訳を廃してまでこの翻訳を入れる必要もなかったように思える。おそらく『鏡の国のアリス』を岩波少年文庫へ入れるのに、両方を同じ訳者で揃える必要があったのだろうが、テキストが一つ減る結果となってしまったのが残念ではある。

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『ふしぎの国のアリス』芹生一・訳 偕成社文庫

 どうも困った。特徴がないのだ。訳文の出来は良いし言葉遊びの処理も合格点に達している。イラストはテニエル。でも、それだけという感じ。角川のようなやつだと悪口の書きようもあるのだが、文句もつけられない。初めて読むぶんにはこういった癖のない翻訳がいいのかも知れない。

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『不思議の国のアリス』石川澄子・訳 東京図書

 これは普通に訳した『アリス』ではなく、マーチン・ガードナーの注釈付き『アリス』の訳。はっきり云って読みにくい。訳文が悪いというんじゃない。とにかく註釈だらけで、見るだけで疲れるのだ。言葉遊びはなかなかうまく処理されている(もっとも、別宮貞徳氏に云わせれば、公爵夫人のやりとりに感心できないくだりがあるそうだが)。どちらかというとマニアが読むための本。註釈を取り払った版が望まれる。


カラー版不思議の国のアリス』石川澄子・訳 東京図書

 ということで註を取り払った版。加えてこの版ではカラーの挿し絵が入っている。と、書けば良いことづくめのようだが、とんでもない。カラー版といっても、色を着けたイラスト('Nursery "Alice"'から取ったのは明白)を、本の途中に何の工夫もなく放り込んだだけ。当然挿し絵が(カラーのもの総て)重複ということになる。どうせならカラーのイラストなど入れずに単なる『不思議の国のアリス』として出して欲しかった。色気なんか出して、註釈本より高い本を出したところで、出版社の見識を疑われるだけですよ。


新注不思議の国のアリス』高山宏・訳 東京図書

 注釈付き『アリス』出版30年後にマーチン・ガードナーが再び註を付したものの訳。イラストはテニエルではなくピーター・ニューエル。訳は前に『鏡の国』を訳した高山宏。訳文は平易であり、言葉遊びも無理がない。紙の色も目に負担が掛からないものを選んでいる。また、全体の註の数のせいでもあるが、注釈付き『アリス』と違い、読みにくいという感じもしない。
 ただ、この本の性質上仕方ないのではあるが、初めて読む人には薦められない。前の注釈付き『アリス』を持っていないとこの本の意義はないように思える(そういう意味では、この本のみ石川澄子でなく高山宏の訳であることは、訳者にとって残念なことともいえる)。「新注」と銘打ってはいるが、あくまで前の註釈本の補足として考えた方がよいのではないだろうか。


『不思議の国のアリス』高山宏・訳 亜紀書房

 『不思議の国のアリス』出版150年の2015年に出された。高山は新注不思議の国のアリス』を出しているが、今回は改稿ではなく、一から翻訳し直した、全くの新訳。訳文は旧訳に比較し非常に読みやすくなった。後書きでは、前回がガードナーの註釈本であるが故に訳文と註釈の整合性まで考えて訳さなければならなかったために不自由な部分があったので、一度、一切註釈なしで訳したかった旨の言葉が記されている。今回の読みやすさは、確かにその点が大きいのであろう。
 旧訳と今回の訳では、登場人物の名前の訳に変更が見られる。冒頭に登場するWhite Rabbit。旧訳では「白ウサギ」と訳され、家の表札も「シロ・ウサギ」となっていた。今回は、最初の方では白うさぎと一般名詞に訳されているが、家の表札は「ホワイト・ラビット」、そして表札が出た後、第八章以降は「ホワイト・ラビット氏」と固有名詞で訳している。The Duchessは旧訳では多くの訳と同じく「公爵夫人」。今回は本人自身が爵位を持っていると解釈して「女公爵」としている。King of Hearts、Queen of Heartsは、旧訳では「ハートの王様」「ハートのおきさき様」であった。ここでQueenを女王でなく王妃と訳している点が特徴的であった(Kingがいる以上Queenは王妃となる筈)のだが、今回はすっきりと「ハートのキング」「ハートのクィーン」と、トランプの呼び方に合わせている。一方、園丁は旧訳では普通に算用数字で呼ばれていたのが、今回は「ツー」「ファイヴ」「セヴン」とされている。Mock Turtleは旧訳が「似非海亀」、今回は「まがいタートル」と訳されている。このあたり、楠本訳の方針を、よりスマートにした感がある。
 イラストは黒ともう一色を使ったもので、それが時に線画、時に彩色画として表現される。そして、一部にはテニエルの構図を敢えて使っているものも見られる。本文との相性も良く、初めて読むにもお奨めの一冊と言えよう。

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『新訳 不思議の国のアリス 鏡の国のアリス』高山宏・訳 青土社

 この訳書では『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』が一冊本となっている。海外のペーパーバックでは多い形式であるが、日本では珍しい。おそらく戦前の楠山正雄訳以降、存在しないのではないか。二冊セットという売り方は見るのだが。この項では『不思議の国のアリス』のみレビューする。
 亜紀書房版で一種振り切れたところがあったが、今回はそこから戻って、新注不思議の国のアリス』の訳文をベースに改稿を加えた形になっている。The Duchessは公爵夫人に戻り、その代わりにThe King, the Queenはキング、クィーンに変更された訳語を残している。訳註を一切つけないのは亜紀書房版と同じ。現時点での高山宏の『不思議の国のアリス』訳の集大成であろう。
 今回の挿絵(本書では「美術」となっている)は建石修志。オールカラーというのがうれしい。挿絵は本文の解説をするというよりも、本文の内容から建石が場面を再構成し、自分の美意識で書き表したというもの。評価は分かれるかもしれない。大人の読者を対象にしているといえよう。美しい美術書としても座右に置く価値がある。
 『鏡の国のアリス』についてはこちら参照。

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『詳注アリス 完全決定版』高山宏・訳 亜紀書房

 ガードナーによる註釈書は、過去に三回出ている。最初が1960年のThe Annotated 'Alice'、次が1990年のMore Annotated 'Alice'で、これは前回の本から新たに別の註をつけたものであった。その後、1999年に、過去の二つの註釈本の註をまとめ、新たな註を附したThe Annotated 'Alice': The Definitive Editionが出された。
 ガードナーは2010年に亡くなるが、北米ルイス・キャロル協会のマーク・バースタインの補訂を得て、2015年、『不思議の国のアリス』出版150年記念の年にThe Annotated 'Alice': 150th Anniversary Editionが刊行された。
 この中で、最初のThe Annotated 'Alice'The Annotated 'Alice': The Definitive EditionがPenguin Booksのペーパーバック版となり、広く読まれて『アリス』を読み込む楽しみを世界中の読者に広めた。日本ではThe Annotated 'Alice'More Annotated 'Alice'の翻訳が、前者は石川澄子訳『不思議の国のアリス』と高山宏訳『鏡の国のアリス』として、後者は高山宏訳『新注 不思議の国のアリス』『新注 鏡の国のアリス』として東京図書から刊行されている。そして、今回、The Annotated 'Alice': 150th Anniversary Editionの邦訳が原著刊行4年にして発売されたということになる。
 もちろん、これだけ註釈書を出す以上、その量も増え、内容も深化しているといえる。その良い例が『不思議の国のアリス』第七章に出てくる「糖蜜の井戸」だ。今まで出ている訳書三冊を見比べられたい。アメリカ人のガードナーが、当初知らなかったビンジーのTreacle Wellについて知見を深める様子が見て取られる。
 非常に詳細な註であるが、それゆえに、時としてなくもがなの註も存在する。例えば第一章でアリスが九九を暗唱するところ。ここでガードナーはn進法による解釈を示している。もちろんこれは数学的には面白い解釈だ。キャロルがそう考えた上でそれを書いたとするのも魅力的かもしれない。だが、当時の掛け算の表が12×12まであり、アリスの計算では4×12が19となり、4の段が終わっても20にならないという自然な解釈が存在している以上、わざわざ捻った解釈をわざわざ註として付すことには疑問を感じる。そういった、作品解釈のための註ではない、蘊蓄を語るだけの註が混在するという点は指摘しておかないといけないだろう。
 『新訳 不思議の国のアリス 鏡の国のアリス』同様、この本でも『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』が一冊本となっている。これは原書のスタイルを忠実に守った結果である。今までの東京図書の翻訳の方が、むしろ原書の形式をわざわざ二冊に分けていたといえる。この項では『不思議の国のアリス』のみレビューする。
 一読して気づくのが、過去の訳のどれとも似ていないという点だ。東京図書版や青土社版の端正な、しかし真面目な雰囲気を醸す訳文でも、亜紀書房版のように突き抜けた、一種やりたい放題の訳とも違う、両者の良いところを取った、バランスの良い訳文といえる。The Duchessは「女公爵」、King, Queenはそれぞれ「キング」「クィーン」と訳されている。
 今回、いくつか紹介したい点の一つが、「鼠の尾話」。詩の末尾の'I'll try the whole cause, and condemn you to death'.の部分の最後が「死」の一文字で終わる。「死刑」でもなければ、「~してやる」というような動詞や助動詞でもない、ただただ「死」という一語。鼠の感じた恐怖を表すのに、これ以上の表現はないだろう。敢えて欠点を指摘するなら、読んでいてここで必要以上に緊張してしまい、その後の食い違ったやり取りが素直に笑えなくなるということくらいか。「笑いは緊張の緩和である」という桂枝雀の論を借りれば、緊張の度合いが強すぎて次の科白では緩和しきれず、笑えない、ということになる。しかしそれは蜀を望むの類でしかなかろう。
 チェシャ猫の話す言葉の文体が今までの訳とは大きく変わっている。文末に「にゃあ」とつく、猫言葉とでもいうようなものになっているのだ。亜紀書房版で「~には」という部分を「~にゃあ」とした箇所があり、ちょっとした雰囲気づくりに働いていたのだが、今回はそれ以外の部分にも意図的に「にゃあ」と付加している。上手いと思うのが、これを文末すべてにつけるのではなく、ごくごく一部にしていること。だから嫌みがない。
 言葉遊びの処理として、残念なことに一歩後退してしまったのがtortoise, taught usの洒落。ここの訳文は「トータス」「トート・アス」となっている。註にturtleとtortoiseの区別の記載がある以上仕方ないのではあるが、これが註釈本でなければ、と悔やまれるところでもある。
 今後、訳者がまた『アリス』を訳すかどうかは判らない。だが、この訳は訳者の『アリス』訳の中で、現時点での最高の訳であるといえよう。註釈に興味がない読者にもお薦めできる。

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『ふしぎの国のアリス』生野幸吉・訳 福音館、福音館文庫

 これも芹生訳と同じように優等生・初めての人向きという感じの訳。僕としては「……それなのにあなた」「なたでこの子の首を切っておしまい」というくだりが大好きなんですが。
 映画『ドリームチャイルド』で『不思議の国』の中の会話が出ていたが、その時字幕に使われていたのがこの訳。
 2004年6月に福音館文庫に入り、安価に入手できるようになった。

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『不思議国のアリス』岩崎民平・訳 研究社

 英和対訳。福島訳になるまで、角川文庫の訳はこれだった。訳者は受験生にお馴染みの『研究者新英和中辞典』第4版までの編者。訳文はやはりというか時代を感じさせる。『アリス』で英語をお勉強、という人には別宮貞徳『「不思議の国のアリス」を英語で読む』と共に参考書として使えるでしょう。でも単に『アリス』を読みたいという人には薦められない。


『ふしぎの国のアリス』北村太郎・訳 王国社、集英社文庫

 何と評していいのか……。怪訳とでも呼ぶべきなのだろう。僕はこれを読んでしばらく言葉が出なかった。
 この本のアリスは現代っ子である。今までの訳ではなんだかんだ云っても「良家のお嬢さん」的な言葉遣いだというのにこの本では「小生意気な餓鬼」という感じ。もともとアリス自体生意気な性格をしているところへ言葉遣いが余計生意気に見せている。一体誰が「……じゃん」なんて話すアリスを想像したか。
 訳者は詩人。その割に言葉の遊びをあまり訳そうとしていない。文体に凝るのも結構だけど言葉遊びは『アリス』の命なんだから、そっちの方もちゃんと訳してくれなくちゃ。
 この訳、本文が総て話し言葉になっている。もともと『アリス』はドジソンさんの「お話」なんだから、話し言葉で訳した例が今までにあってもよさそうなものだが、実際にやったのはこの本が初めて。このことは評価されてもいい。
 初めて『アリス』を読むには適さず、二度目、三度目に「こんな訳し方もあったのだな」といった感じで読む本。僕はこれを読んで関西弁や京言葉で訳した『アリス』を考えたくなった。「えらいこっちゃ! 遅れてまう……」

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『不思議の国のアリス』うえさきひろこ・訳 大栄出版

 アリスの一人称で訳したもの。試みとしては「話し言葉」で訳す以上に大胆といえよう。ただし、原文は三人称で書かれているわけで、どうしても訳す際に無理、そして訳者の創作の部分が入る。また、アリス自身も大人びて訳されている。例えば冒頭の文はこういう具合だ(斜線部にて改行)。
「あたしはアリス。/みなさんご存じの大冒険が始まった日、あたしはねえさんと一緒に丘の上に座っていた。/ねえさんは本を読んでいた」
 その結果として作者が本文中でアリスをからかうような部分が訳されない。また、最後にお姉さんがアリスの夢を追体験する部分のみ三人称で訳さざるを得ないために、木に竹を接いだような違和感を感じることになった。また、訳の文体であるが、シロウサギ(のみ)の関西弁、公爵夫人のざあます言葉なども違和感を感じた(「ざます」というのは遊郭で発生、その後地方出身の士族の女性の言葉となったのだから、貴族階級である公爵夫人が使うはずがない。ま、そこまで云わなくとも、訳文のあざとさが鼻についたのは事実)。
 また、原作から得られたイメージを映像化したのであろうか(この本は「ストーリィ・リミックス」と銘打たれたシリーズの中の一冊)、本文とは何の関わりもない写真が挿入されている。普通に『アリス』を読む人にとっては「なんじゃこりゃ?」といった感じがするのではないだろうか。また、本文が横書きであり、それも違和感を感じる。もっとも、最近はこういった本がおしゃれなのかもしれないが。
 余裕があったら持っていてもいい本かも知れないが、人に薦められるかというと躊躇してしまう。


『不思議の国のアリス』吉田健一・訳 河出・ポシェット版世界文学の玉手箱

 あの吉田健一である。訳にはかなり期待した。だが、この期待は見事に裏切られた。訳文自体は読みやすいのだが、言葉遊びの部分が全く日本語に訳されていないのだ。他の訳本なんかだと訳語の横に原語の音のルビを振って(○○と××のもじり)と書かれているが、この本はもっと凄い。本文中に「これは英語では○○と発音します」とはっきりと書いているのだ。こういう訳で『アリス』を読んだ子供に同情する。訳者に興味のある人は持っていてもいいだろうが、それ以外の人には薦められない。


『ふしぎの国のアリス』中山知子・訳 フォア文庫

 翻訳、特に『アリス』のようなものの翻訳のとき、まづ気になるのが訳文の自然さ。言葉遊びの部分ではどの訳も多かれ少なかれ不自然さが目立つ(「ネズミの尾話」、「尊い師だからトートイス」なんかはこの代表)。これも凄い。お馴染みのネズミの話、「長くて悲しい話を〜っぽ」「確かに長い尾っぽ」。読んでて訳者の苦労が目に浮かぶ。もっとも、他の部分はまあまあ自然。これもあまり特徴がないのでいじめただけ。

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『ふしぎの国のアリス』宗方あゆむ・訳 金の星社

 訳としては、結構読みやすいし言葉遊びにも気を遣っている。柳瀬尚紀以降の訳ということもあり、Mock Turtleの訳に「ウミガメフウ」を用いていることも好感が持てる。本文が横書きであるというのがちと引っかかるが。
 例の問題が絡むのか、最近の訳本でMad Tea Partyが「気違いお茶会」と訳されているものが少なくなった。この本でも「気違い」という用語は周到に避けられている。この訳本では「くるくるパーティー」と訳されている。この訳、なかなかの名訳だと思うのだが、どうだろうか?

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『ふしぎの国のアリス』きったか ゆみえ・訳 金の星社

 訳としてはそれほど独創的な物はないし、イラストもテニエルではない。そういう点で入門編という以上の意味では人に薦められない。気に入った部分はネズミの尾話の部分。「長い、しっぽりとした話なんです」「長いしっぽ」。興味のある人はどうぞといったところか。


『ふしぎの国のアリス』立原えりか・訳 小学館てんとうむし文庫

 これも大して特徴がない。イラストもあまりいいとは云いがたい。とはいえ、献詩のところにボート遊びの絵があるのはよかった。入門編としてはいいのかも知れない。でも、なにか食い足りない気もする。


『ふしぎの国のアリス』立原えりか・訳 小学館フラワーブックス

 これは、上述の訳の5年前に出版されたもの。同一訳者ではあるが、てんとうむし文庫で出版される前にいくらか訳を改めている(例えば、海亀の先生がこの訳では「しい亀=C調だったから」というのに対し、てんとうむし文庫では「なみ亀=並の亀だったから」となっている)。改訳が存在し、ネズミの尾話がしっぽの形をしていないという欠点もあり、『ふしぎの国』を読むためとしては薦めかねる。
 ただし、この本にはもう一篇『いもうとアリス』としてNursery 'Alice'が収録されている。現在、この話の全訳はこれを入れても4種類しかないので、そちらに興味のある人は持っていてもいいかも知れない。ただイラストがテニエルでない上数も少なく、あの「しかけ絵本」的な部分が全く訳されていない。その上キツネノテブクロの講釈が省略されているので、あくまで「興味のある人は」だが……。

(2001年9月22日追記)
 『よみきかせ ふしぎのくにのアリス』が出版されたため、Nursery 'Alice'の全訳は5冊となった。


『不思議の国のアリス』(小学館世界J文学館所収)田中亜希子・訳 小学館

 これは、書籍一冊を購入することで125冊分の電子書籍が読めるという、いわば電子書籍版の児童文学全集に収録されているもの。書籍自体は収録作の紹介/解説のみになっている。
 この訳だが、先行訳を多く参照したことが見て取れる。アリスが鼠に話しかける"Où est ma chatte?"を 「ワタシノ猫ハ、ドコニイマスカ」としたのは柳瀬訳による。Caucus raceを「ドードーめぐりレース」としたのは矢川訳に例がある。また、第六章章題のPig and Petterを「コブタとコショウ」としたのは芦田川訳安井訳に、Mock Turtleをウミガメフーミとするのは島本訳杉田訳に例がある。特に後ろの二者についてはWeb上にも先行訳があり、谷山浩子も「ウミガメ風味」としている。詩のパロディの訳という点では、"Twinkle, twinkle, little bat!"の詩を佐野訳同様、武鹿悦子の訳詩のパロディの形で訳している。
 それだけ先行訳を調べているということもあり、言葉遊びもよく訳されていると思う。鼠の「尾話」の部分は尾話の語にこだわりすぎて不自然になっているが、それに続くnot――knotのくだりは「なんだい、それは!」「難題?」と処理し、アリスにそのあと「だったら、解くのをお手伝いさせて」と言わせている。ただ、残念なのが鼠の尾話がページをまたいでしまっているので、尻尾の形が一望できないというところか。
 全体に語の単位の洒落としての言葉遊びは概ね日本語に移し替えていると言って良い(第十二章のfitなど、訳されていないものもあるが)。一点、Mock Turtleが自分の先生について話す、Tortoise――Taught usの洒落についてのみ「リクガメ(トータス)」と「教えてくれたからだ(トート・アス)」としている。訳者のあとがきによると

 この本では英語のしゃれを、例のように、日本語の音でくすりと笑えるしゃれに訳したのですが、一か所だけ、もとの英語のしゃれがどんな感じか、その雰囲気を楽しめるよう、英語の音をかっこで残してみました。

 とのことである。余計なサービスという気もしないではない。
 さて、語のレベルの言葉遊びは上記の通りだが、文法レベルでの言葉遊びは日本語に訳されているとはいいにくい。例えば第三章の"found it advisable――" "Found what?" "Found it"のくだりは「それを見て、よしとし――」「何を見たって?」「それだよ」と訳しているので、先にitを出しておいて、その内容を跡から説明するところ、itで切られてしまったがために話が脱線する面白さが出ていない(柳瀬訳では、foundを「見て取って」と訳し、そこから脱線の面白さを伝えている)。第五章のイモムシとのやりとりの"explain yourself!"の部分も訳されていない。第七章での帽子屋とアリスの会話でも"I don't think――" "Then you shouldn't talk"の「〜と思わない」と言いかけたのを途中で遮って「考えがないなら話すな」としているところを「そうきかれると、わたし、ない――」「だったら、だまっとれ」と、単なるいじめのようになってしまっている。こういう点、訳者が気づいていなかったのか、気づいてはいたがそこまで訳せなかったのか、気になるところである。もっとも、これらの部分は既訳でもほとんどが訳されていない部分であるが。
 文体は平易。地の文は面白みというか文そのものの魅力がないように思うが、会話の文は上手い。
 ただし、この本、というか出版物の形態については一言いいたい。
 先に書いたように、この本は冊子による作品紹介と電子書籍によるテクストからなる「全集」である。テクスト部分が紙でないからこそ大幅なコストカットも可能であったわけであるが、使用条件が以下のようになっている(https://jbungakukan.shogakukan.co.jp/noticeより)。

 要するに、保証されているのは2030年8月までの貸出であるということ、しかもダウンロードではなくストリーミングなので、ネット環境のないところでは読めないということ(ここはAmazonのKindleと大きく異なる)。テクストが紙に印刷されたものではないので、仮に配信が終了すれば二度と読めなくなることも考えられる。コピーが容易であるだけに、権利者の知的財産権を守るためにも契約者以外に配信されないという点や第三者に譲渡できないという点は電子書籍である以上止むを得ないのであろうし、間違いの修正が容易であるという利点もあろうが、図書館で読めない、人に借りることもできない、絶版になって何年もした後に古本屋で出会った読者が読むこともできない、というのは、テクストが完全に消滅してしまう未来もあり得るということだ。少部数でもよいので、紙媒体での出版も考慮してほしい。

※追記(2022.12.31)
 小学館より『不思議の国のアリス』のみ単体で電子書籍にて発売された。

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Amazon.co.jpで購入 『不思議の国のアリス』のみ(Kindle版)


『ふしぎの国のアリス』蕗沢忠枝・訳 ポプラ社文庫

 ひどい。洒落が全く訳されていない。「トートアス〔教えた〕」などという訳文に我慢できる人がいるだろうか?
 巻頭の献詩も訳されていない。この本に限らず、献詩をないがしろにしている訳は結構目立つ。角川文庫でも訳されていないし、講談社文庫では訳者の勝手な判断で巻末に持ってこられている。一体この訳者たちは何を考えているのだろうか。
 この本、挿し絵に味があるので、それを見たい人にはいいのだろうが、普通に読むためには絶対にお薦めできない。


『ふしぎの国のアリス』蕗沢忠枝・訳 ポプラ ポケット文庫

 これはポプラ社文庫版『ふしぎの国のアリス』を新装改訂版としてポケット文庫から出したもの。挿絵が中島潔から たちもとみちこ に代わっている。訳文についての評価はポプラ社文庫版と変わらない。挿絵に興味のある人はどうか、といったところである。
 ただ、このポケット文庫版が解説までそのままポプラ社文庫版を踏襲していることには、大いに異議を唱えたい。解説で、現在では否定されている求婚伝説を「可憐な逸話」として垂れ流しているのだ。これは親本の出た1982年の時点でも否定されていた説であるし、2005年初頭にLewis Carroll in his own accountが出版されたことでキャロルの銀行口座の出納が明らかにされ、経済的に見てもアリスに求婚するということはあり得ないことが証明されている。まして子供向けの叢書だ。親本をこの叢書に入れる際に、こういったことを全く考慮していなかったとするなら、解説を書いた訳者の見識を疑わざるを得ない。

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『不思議の国のアリス 新訳』佐野真奈美・訳 ポプラ ポケット文庫

 『不思議の国のアリス』出版150年記念として、ポプラ社が『鏡の国のアリス』と同一訳者・同時発売で新訳を出した。本書出版時点では蕗沢訳も出版社のページに掲載されているので、当面は並行販売するのであろうか。
 読んですぐに気付くのが文体。読んだ感じは中山訳に近い、一種ライトノベル的な文章である(時にラノベ的な活字遣いも)。これなら対象読者である小中学生も違和感なく読める。イラストもアニメ絵というほど極端でないにしても、ラノベに出ていても変に思われないイラストだ。
 また、本のページ下部に面白い工夫がある。アリスがシルエットで描かれているのだが、それと一緒にその章の登場人物が、やはりシルエットで描かれる。そして、アリスの位置が最初の右下から章を進むに従って左へ進んで行く。アリスの位置で物語の、あるいはアリスの道程における位置を示している。この工夫は嬉しい。
 本訳は蕗沢訳と比較すると、言葉遊びを日本語に移そうとしている点が大きく違っている。以下、この訳での言葉遊び等の処理を見て行こう。
 「Curiouser and curiouser!」では「ぜんぜんびっくり」としている。拙訳と同じ訳が初めて活字の訳に出現した。鼠の「尾話」の後のアリスと鼠のやり取りでは「ごめんなさい、たしか、尾話≠ヘ五つ目の角に着いたところだったでしょ?」「五つ、目の角を突く、だって!?」となっている。裁判の場面での、ハートの王による"fit"の洒落の部分は「着付けにいそがしくて、ひきつけを起こしているひまもないだろうよ」としている。訳の中には先行訳を明らかに参照したと思われる部分もあるが、なんとか原文の笑いの要素を日本語に訳そうという意識は感じられる。
 本文に出てくる訳語で特筆するのはCaucus raceの訳。河合訳に近く「議員総会レース」と訳されている。また、本文の最後を「Happy summer days」で締めているのも好印象を持つ。
 一方、うまく訳されていない部分も見られる。たとえば鼠の「尾話」。これをそのまま「尾話」としているので、訳が不自然になっている。また、この部分の詩も、「尻尾」の曲がり具合が少なく、曲がり目が五つない。だから次のアリスの科白と矛盾が生じる。あるいは第七章の井戸の底の三姉妹の話。ここではdrawを「絵を描く」と「汲み出す」の意味で使っているのだが、この訳では「救う」と「抄う」という形で使っている、そしてMで始まるいろんなものを描くという部分が、サ行で始まるもの(液体)を「抄う」としている。そのため、糖蜜(この訳ではシロップ)を汲み上げるとのギャップがなく、あまり笑いとしては成功していない。海の底の授業科目も、「海育」のように成功している例もあれば、算数の言葉遊びのように必ずしも成功していない部分も見受けられる。
 言葉遊びとして訳しながらも部分的な最適化を進めたために全体でみるとおかしなことになっている訳もある。裁判の場面。帽子屋が「Twinkle, twinkle」と言いながら、すべての始まりはteaである、というと、ハートの王が、TwinkleがTで始まる始まるくらいは判っていると答える。ここで訳者は帽子屋に「ティータイムに、手はじめに――」とあって、ハートの王に「ティータイムのはじめはテ≠ノ決まっているだろう!」としている。しかし、問題なのは「Twinkle, twinkle」というところ。これは第七章で、この歌を歌ったがためにハートの女王の不興をこうむったとある歌。訳者は第七章では「ちらちら光る/お空のコウモリ」としているのだ(なお、この部分、大西小生訳拙訳と同じく武鹿悦子の訳詩のパロディとなっている)。結局、この場面と裁判が結びつかないという結果を招いている。
 言葉遊びになっていることは訳者も解っていながら、敢えてそう訳していない部分もある。第五章で青虫が「Explain yourself!」といい、アリスが、自分がmyselfではないので答えられないという部分、敢えてyourself、myselfを外して訳している。これは、訳から逃げているという印象を持つ。
 もう一点、気になるのは、"How doth the little busy bee"について青虫に話すとき、なぜか「アイザック・ウォッツという詩人の」と言わせていることだ。もちろん、原作にそういう科白がないとはいえ、それは事実なのであるが、それなら"You are old, Father William"にしても同じように元になった詩がある。なんでここだけこういった解説を入れてしまうのか。なんとも中途半端な印象を受ける。
 訳者は後書きで「なお訳すさいには、できるだけ原文の意味を変えずに日本語でことばあそびをした部分と、原文のいみをはなれてでもそのおかしさを日本語で表現することに力を入れた部分の両方があります。全体を通して、この作品の面白さやおかしさをお届けすることを第一に日本語になおしました」。同じポプラ社の蕗沢訳が原文の笑いに全く無頓着であったのとは好対照である。いくつかの留保はあるものの、多くの場合結果を出せているとはいえよう。

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『不思議の国のアリス』原昌・訳 国土社

 取り立てて云うほどの訳ではない(洒落も訳しきれていない)。この本、巻末に『鏡の国』の訳を載せている。ただ、これが抄訳。何十年か昔ならともかく、なんで今の時代になって抄訳を付けるようなことをするのだろうか。『鏡の国』は、立派な全訳がいくつも出ている。そんな手間を掛けるくらいなら、本文の訳をもっと磨いて欲しかった。

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『不思議の国のアリス』楠悦郎・訳 新樹社

 言葉遊びがいくらか訳されてはいる。でもこれが中途半端。言葉遊びは『アリス』の命。これをちゃんと訳さないのなら他でいくら立派な訳を心がけても「出来損ない」と云われて当然だ。この本を買うくらいなら同じ値段でもっといい訳が何冊か買える。

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『不思議の国のアリス』長友恵子・訳 文化出版局

 この本では挿絵というより、全見開きに絵が配置されている。いわば、絵を楽しむ本といえる。杉田七重版と同じような立ち位置の本だ。アリスはモデルのアリス・リデルをモデルににしており、第一章冒頭にはお姉さんだけでなく妹の絵もある。もちろん、三姉妹をモデルにしている。だから、巻頭詩についても、三姉妹とキャロルが描かれる。また、本のこういう性質もあり、本文が横書きだ。冒頭に不思議の国の地図もあり、絵を楽しむためには非常に良い本といえる。
 しかし、翻訳としてはどうか? 正直なところ、21世紀にもなって、こういう訳が出たことに驚いている。訳文自体は読みやすい。冒頭の「絵も会話もない本」を「絵もないむずかしい文章ばかりの本」とまで意訳してしまうのは、やり過ぎの感があるが許容範囲だろう。白兎のwaistcoatを「ベスト」と訳した点などは、よく訳したと思う。だが、『アリス』で重要な言葉遊びの訳が全く出来ていないのだ。確かに第1章のantipodes/antipatiesを「対蹠地/採石地」としたのは上手い。第6章のpig/figの言葉遊びについては「ブタ/フタ」と処理しているし、第7章のMで始まるものについては「マ」で始まるものとして処理している。しかし、他は全く無視する(ルビすら振らない)か、訳そのものを誤魔化してしまっている。
 前者の例として、鼠の尾話の場面を見てみよう。

「長いし悲しい話になるが、よろしいな!」ネズミはアリスのほうを向くと、ため息をつきました。
「まあ、なんて長い尾っぽ」なんでしょうねえ」アリスは目に入ったネズミの尾に感心していました。

 これに続くnot/knotの洒落も訳さず、訳文では誤魔化されている。後者の例では海の中の学校のlesson/lessenの部分を挙げよう。

「1日目は10時間だったかな、2日目は9時間。そんな感じでね」
「ええ!? なにそれ?」アリスは驚きの声をあげました。
「べつに、よくあることじゃん。毎日おんなじ時間、勉強してたらあきちゃうだろ」これが、グリフォンが教えてくれた理由です。

こんな調子で、教科の部分も日本語の洒落にはされていない。もっとも、この部分については、各教科とそれに対応するMock Turtleの絵が挿絵になっているので、うかつに工夫出来なかったのは確かだが。むしろ、絵に合わせて訳語を作っている感がある。
 Mock Turtleの訳語も「モトウミガメ」となっている。心は「ウミガメスープの素になる材料」だから。ここまでくると誤訳といってしまってもよいかもしれない。それでも、これがMock Turtleの、以前は本当の海亀だった、という科白に引っかけて「元は本当のウミガメだった」と言わせているなら、無理をするなと思いながらも許容できる範囲だと思われる。しかし、この部分の科白の訳は「昔は、ぼく、本当のウミガメだったんだ」となっていて、洒落の効果を狙ったわけではない。
 他にも、なぜ原文を変えて訳すのか理解に苦しむところがある。裁判の場面で、身長1マイルを超えるものは退廷だ、という規則の部分、なぜか「身長が10メートルより高い者は法廷から退出せよ」と、10メートルと訳されている。いくらなんでも1マイルでは大げさとでも思ったのだろうか。また、作者のジョークが理解できていないとしか思えない訳も見られる。第1章でアリスが兎穴に落ちるところ。屋根から落ちても何も言わない、とアリスが言った後、( )内で作者が茶々を入れる部分、そりゃそうでしょうと言って、暗に「口をきけるどころの騒ぎでない、死んでるよ」と匂わせてるところだが、この部分が

「……そうよ、屋根から落ちたってだいじょうぶだわ」(まさか。だいじょうぶじゃないと思いますよ)

と訳されている。Pig/figのように先行訳を参照したとおぼしき部分もあるのだが、全体として、過去の翻訳を比較検討せず、しかも原書についての注釈書も読まずに訳したという印象が強い。今の時代に出る訳文とは思えない。
 最初に書いたが、絵を楽しむには非常に良い本であるが、読み物としては薦めかねる。

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『不思議の国のアリス』酒寄進一・訳 西村書店

 訳については結構読みやすい。言葉遊びについては、過去の訳のよさそうなところをいろんなところから採ってきたという感じがする。横書きということもあり、値段の割にはどうということのない本、そう思っていた。
 しかし、この訳ってドイツ語版『アリス』から訳してるんですよね。そういう意味では結構面白い本ではある。ただ、なんでまた英語の本をドイツ語訳から重訳する必要があるのかという疑問があるが(ドイツ語の本を英訳本から邦訳するのなら、まだ話は解るのだが)。
 値段も高いし、第一選択としてあまりお薦めはしかねる。

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『不思議の国のアリス』杉田七重・訳 西村書店

 第一に文体が心地よい。「だ・である」体で訳し、その文体を守りながらも、読者へ語りかけてくるように感じる。そして、リズミカルでありながらどんどん前に読み進めさせる勢いを持っている。朗読を意識してか、作中の詩のいくつかは韻を楽しめるよう、韻を踏むように訳しており(ただし、すべてではないし、すべてを脚韻の形で処理しているわけではない)、その韻の所に傍点を振って目立たせている。そのため、鼠の「尾話」も、韻が強調される。残念なのはなぜか最後の連だけ韻が踏めていないために試みが中途半端に感じるところであろうか。本文の最後を「子ども時代の幸せな夏の日々を」と、"happy summer days"の言葉で締めたのには好感を持つ。
 訳者後書きに、『不思議の国のアリス』をきちんと読んだのは今回が初めてと書いていたので、はたして大丈夫かと思ったのだが、読み進むにつれ、その心配はかなりの部分で杞憂に終わった。訳者は言葉遊びについては、極力日本語に直すよう努力している(それだけにFather Williamの「Father」の部分や海の底の学校でのwhiting――blacking、eelとsoleといった部分が英語のルビや註に頼っているのが目立ってしまうのだが)。初めてちゃんと読んだ、ということが、時に子供に解りやすく説明するような言葉を訳文に入れる結果となったのかもしれないが、第一章でクロッケーの話が出た際、訳者は「ゲートボールに似たクロッケーというゲーム」と説明している。これが翻訳として良いのか悪いのかは判断が分かれるだろう。
 先に言葉遊びを極力日本語に直していると書いた。その中には鼠の「尾話」を「しっぽりとした」というように、先行訳を踏襲するものもあるが、第七章の「Mのつくものをなんでも」描いたという部分では「三」のつくものとして、「三月うさぎ」の「三」と揃えている。そして、これが「Much of muchness」にいたり「三々五々」とするのは上手い。Caucus raceは「からまわりレース」、Mock Turtleは「ウミガメフーミ」としている。Torroise――taught usの言葉遊びは、先生をタツノオトシゴとして、「教壇にタツノがオシゴト」だから、としている。
 よく訳したと思う反面、首を捻る箇所もある。第七章、お茶会の場面、アリスが怒る寸前の"I don't think――" "Then, you shouldn't talk"の部分が、「そんなこと、あたしに聞かれても」「わからないと言うつもりなら、最初っから何も言うな」となっている。原文の、「考えないなら話すな」という揚げ足取りに対して、こちらは完全にアリスを苛めているだけになってしまっている。また、第九章の公爵夫人とアリスの会話での"Take care of the sense,and the sounds will take care of themselves."が「大同小異、うるさいこと言いっこなし!」となっていて、ことわざのパロディという側面が全く無視されている。海の底の学校の会話でも"extra"を素直に特別料金としてしまっているため、言葉遊びになっていない。そして、裁判の場面。帽子屋に対し王が"Take off your hat"といい、帽子屋が"It isn't mine"と返すところが「帽子を取りなさい」「これ、わたしの帽子じゃないんです」と、yourを抜かして訳してしまったため、意味が解らなくなってしまっている。一読はっきり判る言葉遊びと違い、こういう部分はともすれば見落としてしまう作者の仕掛けと言えるが、それを訳し落としてしまうのは、やはり初めてきちんと読んだが故の欠点といえよう。
 あと、本文全体の文体は良いのだが、細かなところで文体の選択や言葉の選択に疑問がある。朗読で面白さを出そうとしたのだろう、公爵夫人の言葉がわざとらしい「ざあます言葉」になっている。しかも、「〜ざんす」という語尾が頻出するため、イヤミかトニー谷という印象を持ってしまう。チェシャ猫も「じゃ、ひとつ。イヌはおかしくにゃあね。それは納得するにゃ?」という風に、アニメで使われる「人語を喋る猫」の語尾を使っている。これも好き嫌いが分かれよう。あと、細かな点であるが、裁判の場面で「規則42番」と、通常なら「条」を使うところが「番」になっているのも気になった。
 この本では挿絵が豊富というか、全ページに絵があり、その間に本文が組み込まれているという形になっている。そのため、本文は横書きにならざるを得ないが、それはしかたのないことであろう。
 絵が美しく、訳も水準はクリアしている。持っていて損はない本といえよう。

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『ふしぎの国のアリス』中村妙子・訳 評論社 児童図書館・文学の部屋

 中村妙子というと僕などはクリスティを思い出す。この本、愛蔵版であり、カラーイラスト掲載ということから値段が税別5,000円と高い。現役の『不思議の国のアリス』では最高値であり『鏡の国のアリス』まで含めても二番目である。そうなると、その値段に見合うだけの翻訳か、ということが問題になるわけだが……。
 結論からいえば、そこまでの金を払って買うほどの本ではない。イラスト(ヘレン・オクセンバリー画)は、ちょっと現代風過ぎないかとも思えるがそれなりに面白いので、絵に興味のある人は買ってもいいかもしれない。だが普通に読む分には5,000円は高いだろう。訳文は確かに読みやすいといえる。ただ、言葉遊びの処理が不充分なのだ。英語の言葉遊びを日本語に直しているところもあれば、そのまま英語の発音を仮名で振っているところもあり、しかも同じページの中でそういった処理の差が出てくるのだ(海の底での学校風景の部分が、例として一番解りやすい)。それなりに努力しているのは認めるが、あまりにもばらつきが激しい。
 あと、個人的な好みではあるが、本文が横書きなのも気になる。原書の形式を忠実に守ろうとしたのだろうが(そして、そのおもしろさがネズミの尾話の部分では見事に結実しているのだが)、引っかかるのも確かである。
 イラストの価値も含め、もしこれが三分の一の値段だったら「持っていてもいいかも」といえなくもないが、現状ではコスト・パフォーマンスが悪すぎる。
 余談ながら、第二章冒頭のCuriouser and curiouser!をこの本では「おどろき、モモの木、サンショの木」と訳している。面白いとは思うけれど、今時の子供がこんな言葉を使うかねぇ……。

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『不思議の国のアリス』久美里美・訳 エスクァイアマガジン・ジャパン、国書刊行会(新装版)

 表紙に著者と画家の名前しか記載されていないことから、一見、リライトした本文を使った絵本のように見える。だが、これはちゃんとした全訳である。表紙に訳者名を載せないことからも解るように、出版社は映画『アリス』を撮ったヤン・シュヴァンクマイエルによる挿絵本であることをセールスポイントにしている。カルト的な人気のあるシュヴァンクマイエルである以上、多分、その選択は正しいのだろう。挿絵の質も当然高い。一方、全訳本であることを知らず、箱入り・ビニールパックであることから絵本と思ってこの本を手に取らないキャロル好きの人間も少なからず出るのではないかと心配する。ここでは、あくまで翻訳書として訳文を評価する。
 訳文は柳瀬尚紀以降久しぶりに出る、「だ、である」体、小説の文体で訳された『不思議の国のアリス』だ。あくまで大人向きのシュヴァンクマイエルの絵が童話風な優しい文体を拒否しているので、この選択は成功だったといえよう。縦書きでいながらちゃんと鼠の「尾話」を尻尾の形に視覚化したことも認められてよい(尾話が縦書きのレイアウトで、ちゃんと尻尾の形に見えるのは、今まで安井泉訳『地下の国のアリス』くらいしかなかった)。言葉遊びについては、一部ルビで逃げているところもあるが、概ね日本語に移し替えられている。一部の言葉遊びには先人の訳が使用されていて、村山訳にも見られるように「先人の良いところは盗む」ということが定着してきたようだ。たとえば、Caucus-raceを「ドードー巡り」とするのは矢川訳を使っているし、well inを「いど深く」としたのは田中訳を踏まえた訳(改悪?)だ。dwawを「掻き上げる」としたのは柳瀬訳を使っている。lesson――lessenで「時間割」を充てたのは山形訳だ、等々。先人の業績を踏まえつつ、新たなものを付け加えるという、「積み重ね」が、言葉遊びの翻訳にもようやく生まれてきたのが解る。好意的に解釈すればそうなるのだが、少し先人の借用が多すぎる。悪意に解釈すれば、オリジナルの言葉遊びの訳に対しての努力を怠っているようにも見える。もちろん、先人に対するオマージュであるとも考えられるが、訳者はキャロルについてあまり詳しくないようで、芋虫の言葉である"Explain yourself"のダブル・ミーニングにも、アリスと帽子屋の会話に出てくる"I don't think――" "Then you shouldn't talk."という、一種の言葉遊びにも気づいていない。裁判の場面でも、王が帽子屋に向かっていう"Take off your hat"の"your"がここで果たす役割に気づかず訳している。そう考えると、『アリス』という、慣れない対象を訳すために、先人の訳だけを参考にしたのではないか、『アリスの英語』や『翻訳の国の「アリス」』といった研究書を当たるという、基礎的な努力を怠って既成の訳に飛びついたのではないかとも勘ぐれてしまう。もちろん、訳者のオリジナルな言葉遊びの訳も少なくないのだが、少しバランスを失しているように思える
 また、訳で一ヶ所気になったところがある。第七章の訳題を「くるくるティーパーティー」としている点。宗方訳の「くるくるパーティー」を下敷きにしているのだが、これでは単にmadの訳語に「くるくる」を充てたに過ぎなくなってしまう。宗方訳の掛詞による面白みを殺してしまうのは理解できない。「政治的に正しい」表現を使いたければ、「くるくる」を使う必要はないのだから。
 先述したように、出版社があくまでシュヴァンクマイエルの本という姿勢で売ろうとしていることから、訳者の履歴についても記載がなく、訳者による後書きも解説もない。日本での出版契約の際に、原書にない余計なものを付け加えないということにでもなっていたのだろうか。理由は不明であるにしても、読者の側からすれば訳者の顔が全く見えないことになり、非常に不親切な本となっている。『不思議の国のアリス・オリジナル』などもそうであるが、この点、出版社には再考をお願いしたい。

(2011.2.21追記)
 2011年2月21日に、国書刊行会より新装版が発売された。旧版が化粧箱入り、ソフトカヴァーだったのに対して、新装版は化粧箱なし、カヴァーつきのハードカヴァーである。ただし、新装版もビニールパックがかかっており、表紙に訳者の名前がない。シュヴァンクマイエルで売ろうとしている販売姿勢は、出版社が変わっても、変更はないようだ。新装版を出すに当たって、本文が見直されたようで、第十一章のハートの王の科白"Take off your hat"は「そなたの帽子をとりなさい」と修正されている。それ以外に、ここで指摘した点は、特に旧版から変わっていない。

(新装版)Amazon.co.jpで購入

「30名のクリエイターと楽しむ『不思議の国のアリス』」(『不思議の国のアリス ビジュアルファンBOOK』所収)琴葉かいら訳 マイナビ

 これは、単独の訳書ではなく、『不思議の国のアリス ビジュアルファンBOOK』の中に、「30名のクリエイターと楽しむ『不思議の国のアリス』」として、翻訳を収めたもの。ページを上下に割って英和対訳にしている。本文は横書き。
 この本では、翻訳書としてこの訳があるのではなく、イラストや人形、カリグラフィーなどビジュアルアートの合間合間に翻訳のページが挿入されているという造りであり、章が変わったからといって、ページを改めるということもない。翻訳自体として読むなら、非常に読みにくい構成となっている。とはいえ訳文は読みやすい。言葉遊びについては、どこかで読んだ訳が使われていたり(例えば、鱈が「文句タラタラ」は柳瀬訳、溺死(歴史)は山形訳というように)、これは独自の工夫ではないかというものが見られたりで、訳者が言葉遊びの訳に気を遣っているのが解る。第七章のお茶会の場面、井戸の底の三姉妹がいろいろなものをdrawしていた、アリスがなにをdrawしたのかと訊き、ヤマネが「糖蜜だ」と答える部分。アリスの言ったdrawを「お手本を引く」と訳し、そこからヤマネが、水を井戸から引くように、糖蜜は糖蜜井戸から引く、と訳している。やや苦しいながらも、工夫したと思える。またantipathiesを「地球の後ろ側」(裏側とか反対側ではなく)としたのも、ナンセンス味はないが、悪い処理ではない。一方、鼠の尾話は「tale」と「tail」の言葉遊びの訳を敢えて避けてしまって、単にアリスが鼠の尻尾に気を取られたからというようになっているのは、訳から逃げたと言われても仕方ないところであろう。
 ただ、残念なことに、訳者は原文の言葉遊びを完全には捉え切れていない、そんな感じがする。鼠の無味乾燥な話のところでは「...found it」「Found what?」の部分が、「それ」を巡るトンチンカンなやりとりとしか訳されていない。また、青虫との会話での「Explain yourself」も、まともに「自分が何者なのか説明しろ!」と、言葉遊びのネタを割ってしまっている。おそらくここがexplain yourselfの解釈の違いをめぐる笑いの場であることに思い至らなかったのではないか。
 もう一点、問題と思われるのは、巻頭の詩をなぜか本文と離して、『不思議の国のアリス ビジュアルファンBOOK』の第二部ともいえる「『不思議の国のアリス』完全ガイド」の項に移してること。これでは一つの作品として見ることが出来ない。なぜこういうことをしたのか、疑問である。
 やや厳しい評価かもしれないが、こういう、本の一部に全訳を入れてしまう、そして他の要素とのコラボレーションを図るというのは、試みとしては面白い。次に続く人間が出るのを心待ちにしている。


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『不思議の国のアリス』石井睦美・訳 BL出版

 リスベート・ツヴェルガーの挿絵による『不思議の国のアリス』である。こういった、挿絵先行の本によく見られるように、この本も横書きである。これについては、仕方ないと思う反面、やはり縦書きで読みたいとも思う。訳文は柳瀬訳久美訳などと同じように、「だ、である」体を採用している。童話の文章だからといって、いつも「です、ます」体である必要はなく、今後、こういった文体の訳が増えることは好ましいといえよう。ただ、訳文については、久美訳同様、この作品にそれほど詳しくない訳者が、先行訳を参照しつつ訳したという印象をうける。言葉遊びを何とか日本語にしようとしているのだが、端々で先行訳の影響が見て取れる。taleとtailの洒落は、定番ともいえる「尾はなし」を使っているし、第七章の"in the well" "well in"の語呂合わせの所では、「井戸の底にいたんでしょ?」「もちろん、そこの井戸にね……井戸にいたど」として、柳瀬訳をアレンジしている(そして、この後でアリスが「井戸」なのか「板戸」なのか悩む、というギャグを追加している)。他にも第九章の"lesson" "lessen"の洒落は「時間割」という山形訳を使っているといった具合に、誰が読んでも洒落と判る部分は、日本語に置き換えようと工夫をしている。"tortoise" "taught us"の洒落についてはどうしようもなかったのか、英語の説明をニセウミガメにさせている。
 しかし、訳者がそこまで『不思議の国のアリス』に詳しくない、という点は、こういった、一見して洒落と判る部分以外の言葉遊びの処理や、全体を見渡して訳語を選択しなければいけない部分に如実に現れる。例えば第三章、鼠が「無味乾燥」な話をする部分。ここでは"found it"の"it"の解釈で話が脱線して行くのだが、ここで、鼠「それを賢明と見て」、アヒル「なにを見たって?」、鼠「それを見たのです」と、foundを「見る」と訳している、しかし、この後のアヒルの科白では「そりゃあ自分で見つけたものなら」と、「見つける」と訳し、その後、鼠の科白は「それを賢明と見てとって」と、柳瀬訳や楠本訳の「見て取って」を使用している。しかし、この訳語は、最初に「見てとる」とした上でアヒルが「(何かを)見て(それを)取る」と解釈することで生きる言葉遊びだ。訳者は同じ箇所で一つの単語をバラバラに訳した上で、「見てとる」という訳語の肝心の部分を理解せずに書いてしまっている。第五章で芋虫の言う"Explain yourself"にしても、"yourself"を明示的に訳していないため、後のアリスの科白が訳の解らないものになっている。更に問題と思われるのが第七章で出てくる"Twinkle, twinkle...."の詩だ。この章では「きらきらひかる」としているのだが、帽子屋が"twinkle"を口にするのはもう一箇所、裁判の場面にもある。話の中では、帽子屋のこの歌がハートの女王の逆鱗に触れたわけだから、裁判で帽子屋が口にする"Twinkle, twinkle"は、第七章と同じものだと考えないといけない。しかし、裁判の場面で"twinkle"は、帽子屋の「すべてはteaから始まったのです」という言葉に続く王の「TwinkleがTで始まることくらい判っている」という言葉遊びを引き出す。訳者は、この言葉遊びだけは日本語にしようと「チャカチャカ」と訳して「お茶」と語呂を合わせている。局所的には、この処置で言葉遊びが成立するわけだが、全体を見ると、第七章の"twinkle"が全く生きていないことになってしまう。同じく第七章では"draw"が「汲み上げる」と「絵を描く」の二重の意味になっていることに気づいていない。この第七章は章題が「くるっくる茶会」と訳されている。「狂ってる茶会」と「くるくるパー」を掛けたのだろうが、素直に「気違いお茶会」で問題はないだろうし、わざわざ語呂合わせにするとしても、あまり面白いとは思えない。この訳が二十年前、遅くとも十年前に出ていたら、良心的な翻訳と云われたと思う。しかし、今ではキャロルを読み込んだ人が訳すのが当たり前になっている時代だ。そういう意味では出遅れた翻訳といえよう。
 訳文ではないが、一箇所、本文の版組で問題と思われる点がある。第三章の鼠の「尾話」が、全く尻尾の形をしていないのだ。本文では「アリスの頭の中でネズミの話は、しっぽみたいにくねくね曲がりくねっていた」とあるにも関わらず、である。そして、次のページの挿絵では、鼠の尻尾の部分に"Fury said to the mouse...."ではなく、「わたしのは、長くて悲しいお話なのだよ」といった風に、鼠の科白と本文が印刷されている。『不思議の国のアリス』の、この詩の処理としては、大いに問題とするべき所であろう(ただ、この点については原書も同じ版組の可能性もあるのだが……)。

(2008.11.23追記)
 英語版を入手し、確認したところ、英語版でも同様に、当該詩は普通の版組で組まれており、鼠の尻尾のところには訳と同じ文が印刷されていた。訳文にある「アリスの頭の中でネズミの話は、しっぽみたいにくねくね曲がりくねっていた」は、キャロルの英文通り「...so that her idea of the tale was something like this:」となっている(キャロルのつけているダッシュ記号のみ省略されている)。「しっぽみたいにくねくね曲がりくねっていた」というのは、原書で詩が尻尾の形をしていないため、訳者がなんとかキャロルの原文のニュアンスを伝えようと考えた結果の訳のようだ。

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『不思議の国のアリス』村山由佳・訳 メディアファクトリー

 かねてから評判の高かったトーベ・ヤンソン挿絵の『不思議の国のアリス』の日本語訳である。訳しているのは作家の村山由佳。話題性としては充分であろう。ヤンソンの挿絵が、まるで不思議の国がムーミン谷であるかのような趣で、帽子屋もスナフキンを彷彿とさせる。この挿絵だけでも購入の価値がある。装幀と印刷も美しい。また、後書きでキャロルの少女愛者説を「近年の研究できっぱり否定されている」と切り捨てたところも共感できる。
 では、訳文の出来はどうか。一見して解るように、そして訳者が後書きで述べているように、この訳では地の文を話し言葉で通している。つまり北村太郎訳矢川澄子訳の路線を目指している。事実、文体も北村訳と矢川訳の中間のような文体である。言葉遊びについては、先行訳の良いものは取り入れるという姿勢だ。そのため言葉遊びでは既視感を強く感じる。例えば鼠の長い尾話のところ。「お話」と「尾はなし」は、多くの訳書に見られる部分であり、取り立てて特徴がないのだが、"I had not!" "A knot?"の部分は「誰がそんなことゆったよ! ほっとけよ!」「え、結った? ほどけ?」と訳されている。これは前半が 山形訳で後半が柳瀬訳の流用だ。またMock Turtleを「ウミガメフウ」としたのも柳瀬訳を使っている。海の底の学校のlesson――lessenを「お勉強」(だから授業の時間数をまける)というのは、矢川訳を使っているのであろう。A Mad Tea-Partyを「くるくるパーティー」としたのは宗方訳を採っている。もちろん、訳者独自の言葉遊びの処理もある。例えば、このお茶会でのヤマネとアリスの科白"But they were in the well" "well in"というところは「井戸の中だったんでしょう?」「野中の井戸」と訳されている。微かに柳瀬訳の影響があるものの、オリジナルなギャグへと昇華させている。とはいえ、全体的に、旧訳へのオマージュといった色合いが強い。それは、『アリス』の翻訳の愛読者にとっては心地よいものであろう。
 全体にお奨めの訳ではあるのだが、どうしても引っかかるのが登場人物の口調である。三月兔が江戸弁で、帽子屋が関西弁なのだ。ところが、三月兔の江戸弁はどうにも人工的な感じがするし、帽子屋の関西弁は、まさに「東京の人間が喋る、イントネーションのおかしな関西弁」といった感じ。少なくとも近畿の言葉を聞いて育った人間からは反撥があると思われる。むしろ、こういった妙な小手先の小細工は、しないほうがよかったのではないか?
 挿絵、訳者の付加価値は当然あり、いくつかの留保付きであるものの、訳文も充分に楽しめる性質のものであることから、お奨めできる本とはいえる。ただ、どうしても「ファンが作った翻訳」、といった、一種の臭みは拭えない。

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『「不思議の国のアリス」で英語を学ぶ――完全新訳』島本薫・訳 国際語学社

 本書は読み物として出された翻訳書ではなく、語学教材としての対訳本として出された。テクストは『不思議の国のアリス』の全訳。かつてはこういう対訳本も研究社の岩崎民平訳や、旺文社の多田幸蔵訳(訳文は旺文社の翻訳版と同じ)などがあったが、最近では全国規模の出版社から出されたものでは、あまり見かけない。特に全訳で、訳文だけでも読み物として独立して読めるものはない。
 ここで「読み物として独立して読めるもの」と書いた。この訳書は、久々に出た対訳書でありながら、単に翻訳としても読むことが出来るのだ。言葉遊びについても、ほぼすべてを日本語に直しており、訳文も、読者へ呼びかけるような文体である。語学書ということから、各ページに原文に対する註がついており、これらを読むことで、原書を初めて読もうかという人にも最適のガイドとなろう。訳語で一点、特記しておきたいのは、Mock Turtleを海亀風味と訳したことである。これはオンライン翻訳で大西小生が使ったのと、翻訳ではないが、谷山浩子が使用している前例こそあれ、活字の全訳書では初めての使用例となる。
 ただ、読みやすさにおいて、対訳書という制限から来る限界はある。極力自然な日本語となるよう訳者は苦心しているが、同時に、語学教材の訳という点でも訳者は苦労している。具体的には、対訳であり、原文を参照しやすいようにと、殆どの文が、可能な限り元の単語の語順に近く訳されているのだ。もちろん、日本語にする以上、語順は英語と変わらざるを得ない。完全な逐語訳など不可能だ。それでいながら訳者は、フレーズ単位ではほぼ原文と対応出来るように訳語を作っている。キャロルの文章には、たとえ翻訳であっても語順を変えるべきではない語が確かに存在する。例えば第十一章の最後の単語「Alice!」であり、物語の最後の語「happy summer days」である。前者は絶対に章の最後の言葉でなければならないし、後者も出来るだけ本文の最後に位置させるのが望ましい。こういった事例では訳者の苦労は報われ、ちゃんと本文における語が効果的に働いている。しかし、多くの文では、どうしても無理が出てしまう。この点が惜しいと言わざるを得ない。
 また、訳語の選択について、一点、疑問がある。公爵夫人の言葉の語尾が「〜ざんす」となっているのだ。「ざます」「ありんす」と同様、もともとは遊郭の言葉。一時期の、お上品な女性のパロディとしても、今では通用するまい。
 なお、語学教材としても、本書には一点、問題がある。本書には朗読CDが添付されているのだが、これには第5章までしか収録されていない。第6章以降は出版社のサイトからダウンロードする必要があるのだ。しかもそれらはiPhoneやiPadからダウンロードすることが出来ない。どうせ全文の録音を聴くにはパソコンが必要になるのなら、前半だけCDなどということをせず、CD-ROMにmp3ファイルを収録すれば良い話。あるいは、多少コストが上がったにしてもCDを2枚組にすれば良い話だ。なんとも理解に苦しむ本作りだといえよう。

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『不思議の国のアリス』山形浩生・訳 朝日出版社

 山形浩生がネットで公開している『不思議の国のアリス』の翻訳を本にしたもの。ネットでは無料で公開されているテクストであるが、出版物として流通させても、凡百の翻訳に比べれば出来の良いものであり、充分に商品価値を持っている。だが、それを認めた上で、いくつかの疑問点が残る。
 特に大きな疑問点は、この翻訳を本にする際に「インターネットの書式を残す」部分と「インターネットとは違ったものを本にする」部分の選択がバランスを失していると感じられることだ。この本では各パラグラフが一行空けのスタイルになっている。これはインターネットでのテクストをブラウザで表示する時の、<p>タグによるパラグラフの表示形式である。およそ日本語の文章での段落の表示形式でもなければ英文小説でのパラグラフの表示形式でもない。横書きならまだしも、縦書きでのこういった書き方には疑問が残る(数字の表現についても、縦書きで算用数字という表記、なんでもメートル法換算といった点には疑問がある)。また、本という形式に移し替えた際に、本文と挿絵との連携を図るという試みをしているが、一部成功している部分もある(「DRINK ME」が、挿絵の形で「のんで」となっている)ものの、多くの場合やりすぎと云わざるを得ない。例えば第五章ではいもむしの科白の行頭すべてに、いもむしの絵が描かれているのだ。原作が、本文についてタイポグラフィ的な効果を追求している作品だけに、こういった余計な属性の付加は「なくもがな」であり、原作者を無視した行為ではないかと思われる。また、訳註についてもネットのものと同じであるのが気になる。特に問題なのは第10章で「With what porpoise?」の訳文を「うるせーな、ヤリィカ!」とした部分。訳としての出来不出来は措くとして、ここに付けた訳註が「うるさいうるさい、苦しいのはわかってるんでぃ!」。相互性のあるネットならともかく、漫画の欄外の作者の書き込みではあるまいし、読者としたら「だからどうした?」としか云いようがない。読者を「お友達」と誤解していないだろうか?
 訳文は平易であり、「Curiouser and curiouser!」の訳を「チョーへん!」と訳したところなど、これ以上の訳語は現在考えられないのではないかとさえ思われる。しかし、自分が後書きに書いていることに引き比べて、本人の訳文は、ということになると疑問が残る。柳瀬訳 を「漢字だらけのおっかない訳」といいつつ、自身、海の底の学科では漢字におんぶした訳文であったり、本人がいうほどにアリスの科白が自然でなかったりといった点が見受けられる(小学校五年生が、授業を「コマ」で数えるとはとても思えない)。「Down the Rabbit-Hole」を「うさぎの穴をまっさかさま」と訳した点なども(アリスは頭を上にして落ちているのに)、語感としては不自然に感じる。また、解説の中でもキャロルを「ロリコンの変態」という、現在の研究では否定された俗説をそのまま垂れ流している。本人による後書きや解説など、訳文の評価について何ら影響を与えるべきではないのかもしれないが……。
 ここで述べた点は、「蜀を望む」類の批判であるとは思う。しかし、本人が自信満々であり、世評も高い訳者であるだけに、訳文にも通常以上のレベルが要求されるのではないだろうか。

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『不思議の国のアリス』山形浩生・訳 フロンティア文庫

「お風呂で読める文庫100選」の中の一冊。この叢書は、「青空文庫」など、著作権切れ等自由な使用を認めている本文や翻訳を使用したシリーズである。本文は塩化ビニルの本文用紙に印刷され、それをプラスチックの背表紙がリング綴じをしている。耐水性のある素材を使用し、風呂の中で読めるようにした、そういう叢書だ。
 本文については朝日出版社のものとほぼ同じではあるが、訳者の後書きは掲載されていない。また、イラストも全く入っていない。そのため、グリフォンの登場のところで、本文にある筈の「グリフォンがどんなものか知らない方は絵を見て下さい」という記述が削除されている。会話はあるが絵のない本ができあがったわけだ。
 本当に風呂の中で本を読みたいという人はともかく、コレクターズ・アイテム以上の価値はない。

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『不思議の国のアリス』山形浩生・訳 文春文庫

 訳は朝日出版社のものと基本的には変わらない。ネット上で訳者が公開しているものがベースになっている。今回、朝日出版社版にあった、タイポグラフィ的な挿絵表現がなくなり、本文がすっきりした印象を与える。挿絵もスソアキコからカズモトトモミへと代わった。挿絵の点数も多いが、今まで絵にされていなかった場面が絵になっていたりで、非常に新鮮だ。後書きでは「ロリコンの変態」の記述が削除された。嬉しいことである。
 もし山形訳をどれか購入するとするなら、この文春文庫版が現時点ではベストチョイスだろう。

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『不思議の国のアリス』(『ポケットマスターピース11 ルイス・キャロル』所収)芦田川祐子・訳 集英社文庫

 非常に読みやすい訳語だ。訳語の特徴として、これは同じ訳者の『鏡の国のアリス』も同様なのだが、KingとQueenに「王様」「女王様」と漢字で書き、ルビで「キング」「クィーン」と振っていることだろう。トランプもチェスも、通常われわれは「キング」「クィーン」と呼び習わすが、物語の世界では「王」であり「女王」である。また、Queenについては、王がいる以上、通常なら「王妃」と訳すべきところとも言えそうだが、特に『不思議の国』では、女王の方が力が強く、共同統治と解釈して「女王」と訳す、という考えも出来る。そのため、訳者泣かせの感もある部分であるが、漢字とルビを振るという形で対応しているのは面白い工夫だ。訳語の選択の面白さで次に気づくのはCaucus-Raceの訳語だ。これに「周回競走」と訳語を当てていて、アリスに「集会競走」と聞き違いをさせている。これで原義のcaucusも、物語の中のゲームの内容も、両方を表す形にしていて上手い。第六章の章題は「コブタとコショウ」と頭韻を踏ませた訳。オンライン訳では十一訳拙訳に例があるが、活字では初めてではないか。また、「Twinkle, twinkle, little bat」を武鹿悦子の訳詩のパロディで訳している。これは活字では佐野真奈美訳、オンラインだと大西小生訳拙訳がそうだが、まだまだ既存の訳詞のパロディとして訳している例は少ない。武鹿訳は、小学生なら誰でも歌えるだけに、パロディに使う意義は大きいと思われる。また、この訳では十一章の帽子屋の証言のところでtwinkleが再び出てきた時、「きらきら光る茶」「きらきら光る何だと?」「始まりはお茶だったのです」「茶で始まるならチャラチャラだろうが!」と処理していて上手い。本文の最後を「幸せな夏の日々を」と、原文の「happy summer days」と同じ形で終わらせるのもうれしい。
 総じて非常に良く出来た訳だと思うが、言葉遊び等で少々気になる点もある。アリスが屋根から落ちても何も言わない、と言った場面、ここでキャロルの入れた茶々を「まず言えないでしょうね」と訳しているのは、やや説明的に過ぎないか。また、この本が一冊本のキャロル選集という性質上、本文を詰め詰めにしているため、余裕を持った配置が出来ないという事情から、鼠の「尾話」が、ページをまたいでしまっていて、尻尾の先の部分が、ページをめくらないと見えないようになっている。これは残念な点だ。言葉遊びでは、イモムシとアリスの会話の「Explain yourself」や「you see」「I don't see」、「you know」「I don't know」といった部分が、言葉遊びとしてうまく訳せていないように思える。また「ウィリアム父さん」の詩で「Yet you turned a back-somersault in at the door――」の「back-somersault」を「バク転」としたのは、議論が分かれるのではないか。お茶会の中で出てくる糖蜜の井戸の中の三姉妹の話のところで「But they were in the well」「well in」というやりとりを「だけどその子たちは井戸の中にいたんでしょ」「どまん中さ」としているのは感心しない。また、アリスが「I don't think――」と言い、帽子屋が「Then you shouldn't talk」といって、アリスが怒って立ち去る場面、ここは「考えたこともな――」「じゃあしゃべるなよ」となっている。原文の言葉遊びを的確に捉えてはいるのだが、このままだと日本の読者に不親切かもしれない。帽子屋の科白は「考えないのなら喋るなよ」と説明的にしても良いかもしれない。先に挙げた「まず言えないでしょうね」に比べ、ここはそのまま日本語にすると解りにくいと思われる部分だから。
 細かな注文はあるものの、良く出来た訳であると思う。

《註記》
 この本を手に取った方はお解りのように、本の口絵の構成を私が担当しています。ただ、手伝ったのは口絵だけで、本の形になるまで、私は訳を読んでいません。そういう点からも、レビューに身びいきはないと思っていますが 、レビューを出すに当たってはフェアにゆきたいと考えておりますので、この点についてあらかじめ弁明しておきます。


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『不思議の国のアリス&鏡の国のアリス ミナリマ・デザイン版』小松原宏子・訳 静山社

 マクミランから出されたオリジナルの『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』は、どちらも「仕掛け絵本」のような工夫がなされている。得に有名なのが『鏡の国のアリス』でアリスが鏡を抜ける場面。一葉の表裏にアリスが鏡を抜ける絵と鏡から抜け出たアリスの絵を配し、あたかもページをめくることでアリスが実際に鏡を抜けたような錯覚を与える。この訳書は、そういった方向を推し進め、完全に仕掛け絵本として作られたものだ。
 サブタの絵本がその典型になるが、通常、こういった本では本文を短くまとめたリライトになるのだが、この本では『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』二作を一冊にまとめた上で、本文を全訳している。もちろん、オールカラー。
 この本の「仕掛け」の部分を具体的に見ていこう。第二章冒頭でアリスが大きくなる場面。ここではアリスの姿が仕掛けになっていて、手と足を引っ張ると伸びるようになっている。第四章では、白兎の家が、家や窓、ドアがめくれるようになっていて、中で大きくなったアリスが見えるようになっている。第六章ではチェシャ猫の絵が、下のレバーを引っ張ると笑い顔だけ残して消える。裁判の証拠としての代名詞の詩が手紙の形で折りたたまれて入っている。
 訳も言葉遊びを極力訳すように頑張っている。お茶会でのin the well――well inの部分は「井戸の中」「中に『いど』う」となっている。また、登場人物や章題でのいくつかの訳語には工夫が見られる。Caucus-raceは「ハバツ・レース」、A Mad Tea-Partyは「木かげの『む茶会』」という具合だ。Mock Turtleは柳瀬訳に従って「ウミガメフウ」。
 それより特筆するべきは、パロディ詩の訳。いくつかの詩は相当攻めている。イルカとカタツムリの詩では「兎と亀」のパロディになっている。これは冒頭の呼びかけの部分から、一度はやってみようと考える人も多いだろうが、パロディとして最後まで訳し通すのは難しい。この訳でも無理はあるが、一見して「兎と亀」のパロディと解る形で訳されているのは上手い。'Tis the voice of the Lobsterの詩は『平家物語』のパロディで作っている。一方、How doth the little crocodileの詩は、詩としては訳さず、ことわざのパロディ集といった形で処理している。これについてはやり過ぎではないかと思われる。パロディで訳されていない詩については徹底して韻を踏むことにこだわっている。これは特筆するべき事であろう。
 一点、問題と思われるのが、巻頭詩が途中で切れていること。ただ、これはこの本の原書でもなぜか切れている部分。なぜこんなことになっているか疑問である。
 上記のような減点材料はあるものの、本としてよく出来ている。


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『不思議の国のアリス』楠本君恵・訳 論創社

 訳者は『翻訳の国の「アリス」』の著者。過去の翻訳の多くに目を通している。そのため、言葉遊びも、過去の訳で良いものは取り入れるという、柔軟な姿勢をとっている(第7章の「in the well」「well in」の部分は、不自然さが感じられるが、これをうまく処理している訳者は少ないので、大きな失点にはならない)。Tortoise-taught usの洒落を、「なぜ単にカメ先生って呼んだの」「担任だったからタンニンカメ先生」と訳したのは名訳だ。訳文も読みやすいものであり、ブライアン・パートリッジの挿絵も、非常に美しいものである。後書きでは、キャロルの本名を「ドッドソン」と、実際の発音に近く表記されているのも嬉しい。ただ一点を除けば、非常におすすめの翻訳である。
 ただ、この本の翻訳については、大きな一点で異論がある。それは、登場人物の多くを、たとえば「ハッター」とか「ファイヴ」というように、原文の仮名読みですませていることだ。これは、訳者の「固有名詞である」という主張からそうしたということなのであるが、表札まで出ている白ウサギやチェシャネコ、明らかに擬人化されている「時間」については、そうなっていないなど、不整合も目立つ。ただ、ここではその不整合は問うまい。大きな問題は、「果たして固有名詞だから仮名にする」というのが正しいのか、ということだ。
 確かに、近世以降の文学では、固有名詞は特定の人物を表す記号として使用されるため、国によって名前を訳す、ということは、通常ない。しかし、児童文学や、あるいは民話の世界ではどうか。あるいは、遙か以前のヨーロッパの伝統的な寓意物語の場合は。ここでは、「寓意性をもった一般名詞」を固有名詞的に使うという伝統がある。『不思議の国のアリス』でも、帽子屋は、確かに大文字で始まるHatterではあるが、その前に小文字の定冠詞がついて、必ずthe Hatterという形で表現される。「帽子屋」という一般名詞を、この物語ではたった一人しか出ないが故に固有名詞のように使っている。これは他の登場人物にもいえる。これら登場人物の名前は単なる記号ではなく、一般名詞の意味をべったりと貼り付けられているものだ。これは、日本で、たとえば「かちかち山」を考えると、兎や狸が、物語の中で固有名詞のように使われているのに似ている。もし固有名詞だから仮名書きということが正しければ、赤ずきんはロートケプヒェンでなければいけなくなるし、親指姫はデンマーク語で表記するのが正しいことになる。「かちかち山」を英訳するなら「Usagi」「Tanuki」でないといけないことになる。
 実際、欧米では、そういった図式的な扱いをしてはいない。ドイツ語のRotkäpchenは英語ではLittle Red Riding-hoodであるし、Pippi Långstrumpは英語だとPippi Longstockingとなる(日本語ではピッピ・ナガクツシタと訳されている)。
 もしキャロルが「固有名詞は訳さず表音表記」という姿勢を望んでいるなら、話は別である。しかし、キャロル存命中にキャロルの監修の下に出された独訳や仏訳でも、登場人物名は、ドイツ語やフランス語に訳されている。固有名詞だから仮名で表すという姿勢は、キャロル本人の意思にも背いていることにはならないか。果たして読者は「マーチヘア」と聞いて意味の解る、英語を知っている大人なのか、それとも英語なんか全く知らない子供なのか。
 「固有名詞を仮名表記にする」というのは、近世文学以降の、人物を表す記号としての固有名詞の表記方法を、本来適用するべきでない童話の世界に機械的に当てはめたものではないか。もちろん、訳者の真摯な姿勢は理解できる。しかし、真摯に考えた結果「固有名詞を表音表記した」というのと、とりあえず「固有名詞だし表音表記しておこう」というものとは、出てくる時には全く同じ表現になる。そして「固有名詞だから表音表記しよう」から「固有名詞は表音表記しておけば無難だ」までは半歩の後退でしかない。訳者が後書きで書いている「いずれ固有名詞としてこのまま定着するだろうと見越して、モックタートルと訳しました」という言葉が、上記のような意味ではないことは充分に理解しているが、こういった危険性もはらんでいることは指摘しておきたい。
 個人的に訳者の楠本先生とは親しくさせて頂いており、こういったことを書くのは非常に心苦しいのではあるが、自分の意見として、書いておきたい。
 なお、訳者後書きに一ヶ所、事実の誤りがある。「フクロウとヒョウ」「あれはロブスターの声」の詩については、1897年版ではなく、1886年版から大幅に増補されている(その経緯について、1886年版の前書きでキャロルが説明している)。増刷の際に是非訂正して頂きたい。

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『不思議の国のアリスWith artwork by 草間彌生』楠本君恵・訳 グラフィック社

 一読、驚いた。訳者の文体が旧訳とは全く変わっていたからだ。旧訳では敬語体で、読者に語りかける文体、一方、今回の訳文は常体文で、小説のように、描写する文章(ただ、本文中キャロルが顔を出す部分のみ、語りかける文体になっている)。ちょうど、柳瀬訳の集英社版ちくま文庫版のような違いだ。言葉遊びの部分など、大きく変えていないことを考えると、これは草間彌生の造本に合わせて文体を変えたのではないかと思われる。
 この本の大きな特徴は、本全体が草間彌生の「作品」となっていることであろう。本文中のグラフィックもさることながら、タイポグラフィ的処理を徹底的に本文に施している。そして、その「作品」を見た時、旧訳の文体よりは、新訳の文体から感じられる雰囲気のほうが、遥かに似合う。この本は、数ある『アリス』の訳書とは、その性質において一線を画す。他の訳本は、キャロルの本文が主であり、それを活かすために挿絵が存在する。いわば、挿絵が本文に従属しているのだ。しかしこの本は、あくまで草間彌生の作品の中に、あるいは草間彌生のキャロル解釈の上に、キャロルの本文を埋め込んだ、つまり本文が従の関係になっていると言っても良い。これは、キャロルの文学という点、キャロルがテニエルに何を要求し、本人が版面にどれだけこだわったかを考えた場合、手放しに礼賛できるものではない。自分が読みたいのはキャロルの作品であって、草間のアートではない、そういう読者は確実に存在する(かくいう私もその一人だ)。
 とはいえ、そういう個性的な本であるからには、並の訳文では、本文が埋もれてしまう。楠本訳は草間の造本に充分に拮抗できる強さを持つ。そういう意味で、この訳文あって、この本は生きていると言えよう。
 ただ、旧訳で問題とした部分は、今回もそのままである。これは訳者の主張である以上当然ではあろうが、それならなぜWhite Rabbitは「ホワイト・ラビット」としなかったのか、という疑問も、そのままに残る。
 今回、日本語版のみに草間彌生の後書きがある。海外版を持っている人も、そのために日本語版を持っていても良いかも知れない。訳者後書きでは、訳者が巻頭の詩が収録されていないことについて一言書いている。元の本に詩が収録されていないが故に、この本でも完訳とはゆかない。訳者としては一言書かざるを得なかったのだろう。また、この後書きで訳者はキャロルの名前を「ドッドソン」から「ドジソン」へ後退させている。この点について、いろいろと考えもあろうとは思うものの、残念である。
 「訳書」というより、一つの「本」として、この本は持っている価値はある。

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『不思議の国のアリス コンプリート・イラストレーションズ テニエルのカラー挿絵全集』楠本君恵・訳 グラフィック社

 訳文は草間訳の文体を再び「です・ます」体に戻したものだ。キャロルの名前は再びドッドソンになっている。特にここでは訳文について新たなコメントはない。しかし、本の作りとしては、いろいろとコメントしたいことがある。ただ、その前にこの本の原書について説明しないといけない。
 2015年にマクミラン社から『不思議の国のアリス』150年を記念して『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』の合本The Complete Aliceが発売された。挿絵はテニエルのものを彩色したもので、フィリップ・プルマンの序文を付している。本書に収録されている解説「『アリス』の本の物語」もこの本に収められている。後述するがこの訳書の造本もこのThe Complete Aliceを模している。ところが訳書の奥付をみると、原書として2017年という記載のあるThe Complete Illustrated Aliceとあり、出版元であるマクミラン社のメッセージも訳されている。しかし、この本は訳書が出版時点ではまだ出ていない。つまり、この『不思議の国のアリス』の訳が原書に先行して発売されたということになる。ただし、プルマンの序文を付していることやタイトルから考えても、この原書が『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』の合本であることは確実である。
 この本の大きな特徴は、テニエルの挿絵で彩色されたものについて版違いのものを集めたことだ。だから本文の中の挿絵が、同じものが何枚もある、ということになる。場面によっては、キャロル本人による挿絵も収録されている。タイトルにある「テニエルのカラー挿絵全集」とは、まさにこの本の資料性を表したものといえる。
 ただ、資料性ということでいえば一つ不満がある。カラー挿絵全集といいつつ、『子供部屋のアリス』については没になった初版の挿絵が収録されていない。もちろん、テニエルやキャロルによって没にされたから、という言い訳はあるだろう。しかし、テニエルの手を離れたデズ・ウォリスの彩色を入れるなら、少なくともテニエルの眼を通り、実際に発売されていた初版を無視するのはいただけない。これは原書に対しての注文といえる。
 訳書の本作りの姿勢として引っかかる点は、これが『不思議の国のアリス』だけの本として出たことだ。先述のように原書は『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』の合本だ。しかしこの本はそうではない。その上、『鏡の国のアリス』を続いて出版するとの広告も出ていない。おそらく出版はこの一冊だけになるのではないか。この点、非常に残念だ。
 また、造本にも疑問がある。先にこの本が2015年版The Complete Aliceを模していると書いたが、原書(The Complete Alice)はハードカバーで赤の三方金、栞紐つきで作られている。そして、表紙には丸い穴があいている。そこから見えるのが中の紙に描かれた、逃げて行く白兎を見るアリスで、その紙にも穴があいている。その穴から見える次の紙には白兎が描かれている。非常に凝った作りといえるし、キャロルが生きていたら喜びそうな工夫でもある。表紙も背景の模様の部分はエンボス加工され、そこへ銀のインクが載せられている。しかし訳書は赤の三方金と表紙絵は同じものの、ソフトカバーでジャケット付き。栞紐もない。当然、穴をあけるという趣向はなく、背景の模様も薄い水色で印刷しただけ。背表紙では原書が一面を埋める背景模様のエンボスの中にただ一点、逃げて行く白兎を水色のインクで印刷しているだけというデザイン的にも凝ったものであるのに対し、訳書では大きくスペースをあけて内容紹介と帽子屋のカラー挿絵。なんとも安っぽいものになってしまっている。
 訳者の訳文は過去に論じた通りでおすすめできる内容であり、資料性も高い。しかし、出版社の本作りの姿勢には疑問を持たざるを得ない。

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『不思議の国のアリス』矢川澄子・訳 新潮社

『少女座』という雑誌の1987年9月号が『アリス』の特集を組んだ。題して『アリスの本』。この雑誌に創刊号からエッセイを連載していた矢川澄子、この号で『不思議の国』第一章を訳した。
『アリス』を女性が訳すとしたら、この人を措いてはいまい。言葉遊びの訳も水準以上だし(別宮貞徳の著作を読んだなと、ニヤリとさせられる所もあり)、「話し言葉」で本文を訳しているがその出来もすばらしい。「話し言葉」訳の第一号、北村太郎のものを遥かに凌いでいる。イラストはドゥシャン・カーライ。結構この絵にも味がある。
 結構いい本ではあるのだが、文句がいくつか。まづ値段が高すぎる。どんなにいい訳でも5,000円じゃぁ人に薦められない。それと、原書の形式を忠実に守ったせいか本文が横書きだ。考え方が古いせいか縦書きでないと物語を読んだ気がしない。お金のある人は一冊持っていてもいい本と云える、平成初の『不思議の国』の訳。
 出版社に文句を。『少女座』での訳文の終わりに「つづきは今秋発売の新潮文庫でどうぞ」と書いてあったので非常に期待していたのだが、出ない。待てど暮らせど全く出る気配がない。ようやく1990年の1月に出ると判った時には文庫の筈がA4ハードカヴァーで5,000円。まぁそれも我慢して待ってたが、まだ出ない。本屋さんに訊くと「発売が遅れて2月19日に発売です」との返事。結局本当に発売したのは1990年2月21日。およそ2年半待ったことになる。新潮社など二度と信用するものか。


『不思議の国のアリス』矢川澄子・訳 新潮文庫

 上述の訳の文庫化。イラストは金子國義。値段も手頃なら訳も素晴らしい。その上イラストもよいということで、間違いなくお薦めの一冊。

 完全に個人的な恨み言。この本が出版されたのは1994年。予告から7年後である。ええ加減にせぇ!

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『不思議の国のアリス』高橋康也・迪・訳 新書館

 真打ち登場。この人と柳瀬尚紀氏を無視してアリスは語れまい。『アリス』、ノンセンス(ナンセンスではない、念のため)を語っては横綱と云えよう。どれだけこの人の訳を待ち焦がれたことか。
 出版社は「殆ど趣味で本を作っている」新書館。イラストがアーサー・ラッカム。これだけ揃って悪い本が出来るはずがない。これが出た時点(1984年)では最高の訳。僕は『アリス』が読みたいという人に(絵がテニエルでないにもかかわらず)これを薦めたものです。
 重箱の隅をつつくような文句を云わせてもらえれば、ネズミの尾話(言葉遊びの訳を検討する時、僕はこの部分をチェックすることにしている)、「尾話」にこだわり過ぎて非常に不自然になっている。こんなことをいうのも、他の部分が余りにも良く出来ているからだ(「タラはなぜタラと呼ばれているか」「タラコの親だから」。僕はこのギャグが大好きだ)。この人の訳でテニエルの挿し絵の『アリス』を見たいと思った人も多いだろう。

(2005.12.4追記)
 同社の『鏡の国のアリス』出版に合わせ、高橋迪氏が訳文を見直した上で新装版が出された。この新装版は今までの版に比べ上質の紙を使用しており、印刷がよく映えている。カヴァーも新しくなり、造本としてのクオリティが高くなった。また、前の版の後で出された河出文庫版からの改訳となるので、「尾話」の問題点も解決されている。今までの本や河出文庫版を持っている方にもお奨めできる版である。

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『不思議の国のアリス』高橋康也・迪・訳 河出文庫
『不思議の国のアリス ヴィジュアル・詳註つき』高橋康也・迪・訳 河出文庫

 これは新書館の改訳にテニエルの挿し絵という、「夢の共演」。ところが読んでみて驚いた。非常に疲れる。読んで疲れる訳文でもないのに、と、不思議に思っていたのだが、どうも原因は二つありそうだ。
 本が重い、これが第一点。河出文庫もかなり凝ったと見えて非常に上質な(厚い)紙を使っている。そのため、1ページの重さがかなりのものになる。それに各ページの下何分の一かを註のために空けてある。だからページ数が多くなる(本文のページ数がちくま文庫で173ページなのに対して、河出文庫では224ページ。挿し絵の量などのために単純に比較は出来ないにしても、この差は大きいと云わなくてはなるまい)。因みにこの本は東京図書版・註釈付き『不思議の国のアリス』より重い。ハードカヴァーなら最初から重いものという心積もりが出来ているので、重さはあまり気にならない。でも軽いはずの文庫でこの重さでは疲れてしまう。
 次に、註釈が多い。もとの新書館版に比べて遥かに多くなっている。確かに註は有意義なものだが、あれは脚註であれ、割註、頭註であれ巻末の註であれ読むのにかなりのエネルギーがいる。あれだけの註を一々読んでいたら疲れて仕方がない。
 訳文は平易。註釈なしでも充分楽しめる。「一般読者のための」というより「好事家のための」註が殆どなので、楽しみたい方は一旦註を全部すっとばして読んで、後から適当に註釈を楽しむ、そういう読み方をすれば疲れず、なおかつ楽しめるでしょう。
(2022年8月6日追記)
 2022年8月、この河出文庫版は『不思議の国のアリス ヴィジュアル・詳註つき』の題で再発売されたが、旧河出文庫版の新装版であった。

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『対訳・注解 不思議の国のアリス』安井泉・訳 研究社

 『地下の国のアリス』『鏡の国のアリス』『子ども部屋のアリス』と訳してきた訳者が、ついに『不思議の国のアリス』を訳した。個人でこの四作すべての翻訳出版を行ったのは、日本ではこの訳者が初めて。ただ、今までの三作と違うのは、この本が対訳本であるということだ。とはいえ、同じ研究社から以前に出ていた岩崎民平の対訳や、以前に旺文社から出ていた多田幸蔵の対訳のような、英語の学習教材としての対訳ではない。また、「30名のクリエイターと楽しむ『不思議の国のアリス』」のように翻訳と一緒に「英語でもアリスを読んでみましょう」というのとも違う。アリスをとことん読み解くための対訳であり註釈なのだ。シェイクスピアではこの本と同じ研究社からそういったシリーズが出ているが、キャロルでは、日本でも初の試みではないだろうか。一方、物語を楽しみたい、という向きには、対面しただけで身構えてしまうようなところもある。
 この訳者の美点は、読みやすい日本語にある。今回は詩の訳について七五調だけでなく、頭韻にもこだわっている。その代表的な例が第6章の章題「コブタとコショウ」だろう。出版された訳では芦田川訳に続いて二つ目の例ということになる。言葉遊びも概ね日本語になっている。この本独自で面白いと思ったのは、第10章でアリスがタラに会ったことがあるかと訊かれる部分。原文では「at dinn――」と、dinnerを言いよどむところで、多くの邦訳は、訳文でもアリスに言いよどませている。この訳では「夕食の席で――」としたあと、「憂色の堰がどこの堰か知らぬが」と受けている。ただ、海の学校の教科についての言葉遊びは、やや説明的過ぎて笑いにくい。対訳ということに引っ張られたのかもしれないが。お茶会の場面で出てくるdrawの洒落については「汲み上げる」「組み上げる」と処理している。in the well――well inの部分は「井戸高き井戸のいと深きところにね」としている。
 訳文に欠点を挙げるとすれば、時に訳文が説明的に長くなることだろう。ただし、これは読みやすさと表裏の関係になるのだろうが。
 さて、対訳ということで残念なのが挿絵。せっかく1897年版から挿絵を採っているというのに、本の性質上、挿絵があるのは英語ページのみ。そして、本文とのレイアウトが原書と同じにはできないため、「挿絵の真下の本文が、まるで挿絵のキャプションに見える」という、原書の面白みは減ってしまった。とはいえ、いくつかの仕掛け絵本的要素は残っている。チェシャ猫が消える絵のページで、下の端を2ページ分つまんでめくると、消えるチェシャ猫をアリスが見上げる絵が出来上がる。
 さて、ここでは原則として訳書としてのみ評価しているが、やはりこの本については詳細な訳註について紹介するべきだろう。他の対訳本や翻訳書とこの本の註の決定的な違いは、文学としての『不思議の国のアリス』を、一語もゆるがせにせずに読み解く、言葉を解釈するための註だということだ。英語学習ではないので、単なる単語や構文の解説ではなく、たとえば、アリスの科白が途中で切れて「――」になっているような場合に、どういう状況だからアリスの科白が途切れるかまで解説している。ガードナーの注釈本が、本文に埋め込まれた様々な事実を解説するのに対し、この註釈は、外国人である我々が、ひたすら英文のテクストを読むための註といえる。これから『アリス』を原書で読んでみようという人には必須の本といえるだろう。
 あえて贅沢な注文をつけるなら、この訳文で、対訳ではない、翻訳書としての『不思議の国のアリス』も手許に置きたいものだ。

《註記》
 この本を手に取った方はお解りのように、これも『地下の国のアリス』『鏡の国のアリス』『子ども部屋のアリス』同様、私が関わっています。仲間褒めはしていない積もりですが、身びいきの出ている可能性は否定できません。とはいえ註釈については無条件でお奨めできますし、訳文についても、お奨めできるものであると思っています。レビューを出すに当たってはフェアにゆきたいと考えておりますので、この点についてあらかじめ弁明しておきます。

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『ふしぎの国のアリス』柳瀬尚紀・訳 集英社

 ついに出た、というのがこれを見た僕の最初の感想でした。あの柳瀬尚紀が『アリス』を訳した! この喜びはいかばかりであったか。
 断っておくとこの本はリライトである。ここでは全訳のみを挙げることにしていたのだが、唯一の例外を認めて欲しい。
 というのもこの本、児童向けのリライトのなかでは最高の出来と考えられるからだ。名作(特に『アリス』のような作品)をリライトで読ませることには反対なのだが、これは別。下手な全訳なんか読むよりこれを読む方がよほどいい。文体模写とナンセンス(ノンセンスではない、念のため)で知られた柳瀬尚紀、『アリス』を訳すに当たってあっと驚く新機軸をいくつも出してくれる。
 まづアリスがネズミに話しかける「ウ・エ・マ・シャット」。これを今まではカタカナで表記して日本語の意味を( )の中に入れるというやり方だったが、どうもこれでは目障りだ。かといって、『アリス』の読者たるべき日本の子供がフランス語の解る道理もない。それで出てきたのが「ワタクシノ・ネコハ・ドコニ・イマスカ?」。外国訛の日本語を使うことによって、この問題をほぼ解決して見せた。
 次に公爵夫人の話す格言。これを日本で有名な言葉のパロディでやってしまうことなど、誰が考えただろうか。それが何かは、読んでからのお楽しみ。
 そして、最も大きいのは、Mock Turtleの訳名。このことについては河出文庫『不思議の国のアリス・ミステリー傑作選』巻末の横井司氏の解説にも触れられている。Mock Turtle Soupの材料たるMock Turtleを「海亀風スープの材料である海亀フー」と訳したそれだけでも、この本は記憶に留められてしかるべきであろう(どうも谷沢永一風になってしまった)。以降『アリス』を訳す人には「海亀フー」を取り入れてもらいたいものだ。
 言葉遊びについては云うまでもない。語呂つき柳瀬尚紀の名人芸を鑑賞されたい。
 イラストもいい。テニエルの亜流の感無きにしもあらずだが、とにかくアリスが可愛い。『不思議の国』に関するかぎり、テニエルの描くアリスを僕は好きではない。この絵は、少なくともアリスについてはテニエルのものより素晴らしい。ロリコンの人には一読をお薦めする。
 ところで柳瀬先生、確か高橋康也氏との対談(『アリスの国の言葉たち』所収)で「『アリス』を『です・ます』で訳すことは僕にはできない。どうしても『だ・である』で訳すことになる」というようなことをおっしゃっていたように思うのですが、この『アリス』は『です・ます』体ではないですか?

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『不思議の国のアリス』柳瀬尚紀・訳 ちくま文庫

 ……などと思っていた昭和62年にこの本が出た。「だ・である」体で訳した唯一の『不思議の国のアリス』、しかも全訳。その上今度はリライトの時ですらやらなかった「訳注を一切付けず、本文だけで解るようにする」というおまけ付き。挿し絵がテニエルでないのが少し寂しいが、河出文庫版と並んで邦訳『アリス』の決定版ということができよう。
 なお、柳瀬尚紀氏はこの後リライトをもう二冊出しているが、集英社版を先に紹介したのでここでは触れない。

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Through the Looking-Glass

『鏡の国のアリス』岡田忠軒・訳 角川文庫

 私事になるが、僕が最初に読んだ『鏡の国』がこれ。同じ角川の『不思議の国』を読んだすぐ後だけに、英語の洒落を日本語に直していることに驚きを感じた。「ここまでやるか?」という感じで。
 後から考えると英語の言葉遊びを日本語に移すのが訳者の腕の見せ所で驚くには当たらないのだが、あの福島訳で『アリス』を知った人間には殆どカルチャー・ショックに近いものを与えた。そんなわけでこの本についてはつい点が甘くなる。
 とはいえ文句もある。献詩、跋詩、それにチェスによる物語の進行図が総て省かれている。非常にこの本が気に入ってはいるが、この点だけで人に薦めるのを躊躇してしまう。
 イラストはテニエル。かなり数を絞って載せている。表紙絵のみ和田誠。興味のある人は持っていてもいい本と云えよう。

(追記)
2010年2月25日、角川文庫版の『鏡の国のアリス』は河合祥一郎訳へ改版された。現在、岡田忠軒訳の『鏡の国のアリス』は流通していない。


『鏡の国のアリス』河合祥一郎・訳 角川文庫

『不思議の国のアリス』もそうだが、この翻訳の特徴を一言で表すと「親切で使い勝手の良い翻訳」ということになるだろう。註釈本と違って訳註は最小限にとどめ、それも割り註に近い形で本文と違和感なく読ませる。しかしパロディ詩の元ネタのように、知っておいた方が作品を楽しめる知識は巻末に読みやすく記し、実際に歌われたものについては楽譜も掲載している。『鏡の国のアリス』では、チェスの進行が重要な要素となるが、この進行図をちゃんと解説したのは、文庫本では初めてだ。作品を楽しむための情報が要領よく詰まっていて、なおかつ読んで疲れることがないよう工夫されている。
 翻訳ということではなく、「本」という観点に立つと、原書の「仕掛け絵本」的な部分も再現されている。第一章の、アリスが鏡を抜ける場面。ここでは、原書通り、ページをめくると、まるでページが鏡になってアリスが抜けてきたような印象を与える。また、10章から11章にかけても、赤の女王がページをめくるとキティになるように配置されている(厳密にいえば、この配置は原書とは幾分違う。しかし与える効果はほぼ同じなので、それを惜しむには当たらない)。
 詩の訳の押韻や言葉遊びをほとんど日本語にしているところ(冒頭の詩の中に隠されたアリスのミドルネーム「Pleasance」まで)など、美点は『不思議の国のアリス』と同じだ。加えてこの訳では巻末の詩を、原文と同じく完全なアクロスティックで訳しており、各行の一文字目を読んで行くと「夏の日のアリス・プレザンス・リドルさようなら」となる。これは、文庫本では初めての試みだ。また、本作ではHaigha, Hattaはそれぞれボゥシャ、ウシャギと訳されている。こういう訳語の工夫は嬉しい。
 一点、好みが分かれると思われるのは、トゥイードルダムとトゥイードルディーに関西弁を使わせていること。うえさき訳村山訳の『不思議の国』と違って関西弁そのものは至って自然なのだが、ここだけわざわざ関西弁にしたという点で、嫌う読者も出るのではないだろうか。
 個人的には岡田訳は好きな訳で、なくなって欲しくはなかったが、この訳はそれを埋めるに充分過ぎる翻訳だろう。

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『新訳 かがみの国のアリス』河合祥一郎・訳 角川つばさ文庫

 同じ叢書の『新訳 ふしぎの国のアリス』同様、角川文庫の河合訳を底本に、子供の読者のために漢字を仮名に開いたり、一部の言い回しを易しく書き直しているもので、内容そのものは角川文庫版と変わらない。但し、『新訳 ふしぎの国のアリス』同様に、パロディ詩の元ネタやその楽譜は削除されている。チェス進行の解説は削除されて、代わりに「アリスのチェス教室」という題で駒の動かし方が解説されており、原書冒頭の棋譜では、それぞれの駒に登場人物のイラストを関連づけている。年少の読者には親切な作りだ。
 イラストは、これも『新訳 ふしぎの国のアリス』同様、okamaによる描き下ろしが採用されている。そうなると気になるのは、原作の「仕掛け絵本」的な二ヶ所の処理だ。okamaは、どう描いているか。
 アリスが鏡を抜ける部分では、一枚の紙の表と裏に鏡を抜ける前後が描かれている。そこまでは良い。しかし、動きを出そうとしたのか、鏡を抜ける前のイラストではアリスが鏡を覗いており、抜けた後のイラストでは、まさに鏡を抜ける場面になっている。それが、やや鳥瞰的に描かれていることもあって、ページが一枚の鏡のようは感じられにくいのが残念なところ。一方、本文は、鏡抜けの前のページが「……まるできらきら光る銀のもやのようにだんだんと溶けてきたのです」の文で終わり、ページをめくった本文が「次の瞬間、アリスはかがみをくぐりぬけて、かがみの国の部屋にかろやかにとびおりていました」で始まる。この配慮は素晴らしい。もう一点の「仕掛け絵本」の部分、アリスが赤の女王を捕まえて、猫に変わる場面であるが、こちらは赤の女王の絵のページをめくると、見開きで同じ位置にキティの絵が印刷されている。ちゃんと原書の工夫を解った上で再現している。
 同じ訳者による二冊の本ということもあり、どちらか一冊というなら、角川文庫版ということになろうが、この本自身も、魅力のある本作りがされているといえよう。


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『鏡の国のアリス』高杉一郎・訳 講談社文庫、講談社青い鳥文庫

 同じ訳者の『ふしぎの国』に同じ。昭和の63年にもなって出す訳ではない。ひょっとして、言葉遊びを直訳して註で「○○と××との洒落」と指摘する人は、『アリス』でどんな英語の洒落が使われているか研究する人に対して訳しているのだろうか。もしそうなら、だれでもが手に取る文庫本に童話の文体で訳すなどということはやめて貰いたい。ハードカヴァーで南雲堂とか研究社みたいな所から出したらいい。それとも「ここは英語でこんな洒落になってるんだよ。日本語で読んでちゃ判らないだろうけどね」とでも云いたいのだろうか。それなら初めから訳してなんか貰いたくない。ちゃんと日本語で楽しめる訳が他にあるのだから。こんな訳が未だに出ているということが信じられない。

(2010年5月18日追記)
 2010年4月9日に新装版が発売された。挿絵は従来のテニエルから山本容子に変更された。

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『不思議の国のアリス/鏡の国のアリス』高杉一郎・訳 講談社

 高杉訳の『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』を一冊にしたもの。本の装丁・挿絵やテクストについては『不思議の国のアリス』の項に書いた。ここでは『鏡の国のアリス』の挿絵について少しだけ紹介したい。原書ではアリスが鏡を抜ける場面で、ページの裏表にアリスが鏡を抜けようとする場面と鏡を抜けてきたアリスの挿絵が印刷され、まるでページが一枚の鏡のように見える。また、アリスが赤の女王を捕まえて猫にする場面ではページをめくるとアリスの手の中の赤の女王が猫になるように配置されている。こういった仕掛け絵本的な工夫が、この本の挿絵でも再現されている。挿絵の北澤平祐が、原書の工夫をよく理解した上で挿絵を描いたのであろう。この工夫は知られるべきだ。

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『鏡の国のアリス』多田幸蔵・訳、旺文社文庫

『不思議の国』の時にも触れたが解説が絶品(この解説を書いている高山宏氏は、後に『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』『おとぎの"アリス"』を訳すことになる)。本文のほうはどうも切れ味に欠ける。言葉遊びの処理が中途半端なのだ。1975年時分ならこれで良かったかもしれないが、今となっては「もっといい訳がありますよ」と人に云ってしまう。


『愛蔵版 鏡の国のアリス』脇明子・訳 岩波書店

 同じ訳者の『不思議の国』と同じく、マクミラン社の彩色・愛蔵版の、キャロル没百年記念に合わせた翻訳。レイアウトについても『不思議の国』と同じことがいえる。理解は出来るのだが、横書きの本文というのは違和感が残る。総てのイラストが彩色されており、この点も『不思議の国』同様、イラストという点のみについては東京図書の『カラー版鏡の国のアリス』の役割は終わったと感じさせる。ただ、これも『不思議の国』同様にテニエルのイラストの輪郭を殺す結果になっているのが残念ではあるが……。
 訳文は平易。特に癖がなく初心者向けといった感じがする。言葉遊びもかなり訳されており、そのために却って訳しきれなかった部分の訳註が目立ってしまう結果になったのが残念といえば残念。HattaとHaighaはボーシャ、ハーネルと訳されている。芹生訳以降、こういった訳語が増えるのは読む側も楽しくなる。それに、Nobodyの部分の訳し方は、多少の問題はあるもののこの訳が最高ではないだろうか。
 訳がそれなりに良く、「かつらをかぶったスズメバチ」の挿話も収録されているものの、値段が高く、『不思議の国』同様にコストパフォーマンスは必ずしも高くはない。彩色された愛蔵版に興味のある人はどうぞ、といったところか。


『鏡の国のアリス』脇明子・訳 岩波少年文庫

 岩波書店の『愛蔵版 鏡の国のアリス』を岩波少年文庫に入れたもの。本文が縦書きになり、イラストもテニエルのオリジナル版(白黒)を使用している。ただし「かつらをかぶったスズメバチ」挿話はこれには入っていない。とはいえそれは他の訳本も同様であるのでこれが欠点ということにはなるまい。結果としてコストパフォーマンスは大幅に上昇した。田中訳から45年にして、漸く岩波少年文庫に『不思議』『鏡』が揃ったことになる。

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『鏡の国のアリス』芹生一・訳 偕成社文庫

『ふしぎの国』同様、この訳も特徴がない。初めての人向きであろう。
『鏡の国』の跋詩は、原文ではアリス・プレザンス・リデルの折り句になっている。この訳では、完全な折り句にすることは出来ないが、かといって全く訳さないのも嫌だ、そういう感じで各連の頭の字を取っていくと「アリスよさらば」となるようにしている。中途半端とはいえ、この苦労は認められてよい。
 それと、この訳で一つ忘れてはならないことがある。白の王様の伝令HattaとHaigha。この二人は『不思議の国』の帽子屋(Hatter)と三月ウサギ(March Hare)に通じているわけだが、大抵の訳本ではその面白味が出せていなかった。この本では二人の名前をボーシヤとサンガツとして、『不思議の国』に通じる面白さを出している(柳瀬尚紀が後に某氏也、卯茶義と訳しているが、ここまですると「やり過ぎ」のような気がする)。以降の翻訳で、この訳語が定着したらいいと思うのだが、どうだろうか。

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『鏡の国のアリス』高山宏・訳 東京図書

 マーチン・ガードナーの注釈付き『アリス』。そういうわけで読みにくい。ただし訳文の質は逸品(あの膨大な註さえなければ)訳文は読みやすいし言葉遊びも訳されている。そしてなにより凄いのは跋詩を完全な折り句にしたということ。各行の頭を取っていくと「アリス・プレザンス・リドル、ルイス・キャロル祈る」となる。もし註を取り払った版が出来たらマニアでない人にも薦められるのだが……。


カラー版鏡の国のアリス』石川澄子・訳 東京図書

 訳文は読みやすい。洒落も訳されている。跋詩も各行の頭を取って行くと「アリス・プレザンス・リデルへルイス・キャロルより」となる、完全な折り句だ。しかし僕はこの本を「欠陥品」と呼びたい。
 理由はたった一つ、「ジャバーウォック」だ。この詩自体の訳はそんなにひどくない。剰りに(ハンプティ・ダンプティによる)説明風に訳され過ぎて、意味の解らない言葉がなさ過ぎるが、これは我慢ができる。ところがハンプティ・ダンプティの解説の段になると無茶苦茶になってしまう。自分が訳した言葉を使っていないのだ。だからアリスが暗唱した詩とハンプティ・ダンプティが解説するものとがまるで別物になっている。自分で「日時計」と訳した言葉がハンプティ・ダンプティに意味を訊くときには「ウェイヴ」となる(しかもこの単語の英語はwabeなんだから、表記も疑問がある)し、他の単語にしても、意味を尋ねる時には原文の発音をカナで表すだけになっているものが多い。この部分を早急に何とかして欲しい。欠陥品を掴まされた者はたまったものではない。


新注鏡の国のアリス』高山宏・訳 東京図書

 注釈付き『アリス』の出版以降現在までで、最も大きい事件の一つは「かつらをかぶったスズメバチ」の挿話の発見であろう。今ではこの挿話を巻末に収録している原書もいくつか出ているが、邦訳はこの本のみ。
 訳文は前の注釈付き『鏡の国』と同じ。さきの新注不思議の国のアリス』でも触れたが、註そのものは注釈付き『アリス』の補足という色合いが強い。しかし『不思議の国』と違って、「かつらをかぶったスズメバチ」が収録されている唯一の訳本ということで、前の注釈本を持っていない人にも薦められる。

(追記)
 「かつらをかぶったスズメバチ」挿話は1998年11月発売の脇明子・訳『愛蔵版 鏡の国のアリス』(岩波書店)にも翻訳・収録された。


『鏡の国のアリス』高山宏・訳 亜紀書房

 これも『不思議の国のアリス』同様、過去の東京図書版とは全く違う、一からの新訳になっている(ジャバーウォッキーも!)。東京図書版が昔ながらの童話の文体なのに対して、こちらは現代の子供に読み聞かせるような文体になっていて、アリスも今の時代の女の子の話し方になってる。ある意味で北村太郎訳の平成版(ただし、もう少し品がある)といった趣だ。言葉遊びも新しく訳しなおしており、巻末のアクロスティック詩も新訳、各行の頭の文字を読むと「アリス・プレザンス・リドルかいたルイス・キャロル」となる。一方、巻頭の詩の最後の行に入っていたPleasanceの訳出は今回はない。
 挿絵がテニエルでない以上、仕掛け絵本的な部分は諦めざるを得ないが、それでもアリスが鏡を抜ける場面では、見開きをうまく使い、現実世界のアリスと鏡の国のアリスが向き合っていすところを、読者が鏡の位置から眺めるようになっていて面白い。赤の女王が猫になる場面は、残念ながら見開きで処理してしまっていて、面白みに欠ける。絵もテニエルの焼き直しといった感じだ。
 今回の訳で一番驚いたのはトゥイードルダムとトゥイードルディーの章への導入だ。よく知られているように原文では前の章が「feeling sure that they must be」とピリオドを打たず、そのまま次章の章題「Tweedledum and Tweedledee」へと、韻を踏みつつ一文となるようにしているところだ。今までも多くの訳がこの部分をその形で処理してきたが、この訳文で、その一歩先を行った。なんと、前章の終わりの行の文字が余白の部分までずっと下へ伸びて行き、次ページ(次章)の上の余白を突き破って続く。そして、大きな文字で章題が表示されて改行。最初見たとき、何が起きたのか一瞬理解できなかった。この部分の訳としては空前にして絶後の工夫ではないか。
 訳者は今回、詩の部分について脚韻を踏んで訳している。ただ、それが各行最後の文字の母音部分だけの韻になっている。あとがきにそう書いているから気づくが、ほとんどの人は気づかない。柳瀬尚紀が、日本語で韻を踏む場合は二音は揃えないと韻とは認識されないというような意味のことを述べていて、自身の『ナンセンスの絵本』の訳でも実践しているが、確かにそれくらいしないと、日本語では韻と認識されにくと思う。訳者が努力した点であるだけにもったいないといえよう。

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『新訳 不思議の国のアリス 鏡の国のアリス』高山宏・訳 青土社

 この訳書では『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』が一冊本となっている。この項では『鏡の国のアリス』のみレビューする。
 今回の訳は亜紀書房版から一転、新注鏡の国のアリス』の訳文をベースに改稿を加えた形になっている。Jabberwockyも東京図書版の訳に戻り、巻末の詩のアクロスティックも「アリス・プレザンス・リデル、ルイス・キャロル祈る」に戻った。チェスのKing, Queenはキング、クィーンとしている。訳註は巻頭詩のPleasanceの説明以外にはない。
 今回の挿絵(いや、「美術」か)は建石修志のオールカラー。建石独自の世界が見られ、美術書としても手許に置きたくなるが、反面、原作の「仕掛け絵本」の工夫はすべて無視されることになる。これはキャロルの望んだ本作りを考えると、残念ではある。
 『不思議の国のアリス』についてはこちら参照。

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『詳注アリス 完全決定版』高山宏・訳 亜紀書房

 『新訳 不思議の国のアリス 鏡の国のアリス』同様、この本でも『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』が一冊本となっている。これは原書のスタイルを忠実に守った結果である。今までの東京図書の翻訳の方が、むしろ原書の形式をわざわざ二冊に分けていたといえる。この項では『鏡の国のアリス』のみレビューする。註釈書としての本全体については『不思議の国のアリス』の項に記す。
 この訳も『不思議の国のアリス』同様、全く新しい訳文になっている。東京図書版青土社版亜紀書房版の二種類の訳の中庸を行っているという点も『不思議の国のアリス』と同じ。
 新訳ということで、今回Jabberwockyの訳も全く新しくなった。今回の訳で特に気に入ったのが「セイウチと大工」の詩。最後の一行には「やられた!」と思ったものだ(未読の人の楽しみを壊さないため、敢えて引用はしない)。
 King, Queenは『不思議の国』同様、「キング」、「クィーン」。巻末の詩のアクロスティックは亜紀書房版と同じく「アリス・プレザンス・リドルかいたルイス・キャロル」と読めるようになっている。巻頭の詩のPleasanceの部分は、ちゃんと訳文にも織り込まれている。
 これは『鏡の国のアリス』に顕著なのでここで評するが、註釈本の性質上、原書の「しかけ絵本」的な要素がうまく活かされていない。それでも赤の女王がキティになる場面は、それなりに楽しめる配置だが、アリスが鏡を抜ける場面は1ページに挿絵二枚を並べて配置する形になっている。註釈にちゃんと仕掛けの内容を記してあり、原書もこの部分は仕掛け絵本の作りにしていないので、仕方ないとは思うが残念な点だ。
 『不思議の国のアリス』と同様、この訳は訳者の『アリス』訳の中で、現時点での最高の訳であるといえよう。註釈に興味がない読者にもお薦めできる。

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『鏡の国のアリス』生野幸吉・訳 福音館、福音館文庫

 これも『ふしぎの国』と同じく優等生の訳になっている。この訳本で気に入ったのが「羊毛と水」の章に出てくる「蟹を捕まえる」の訳。ボート用語ということで、今まではなかなか自然な訳語にお目にかかれなかったが、この本では「櫂をとられちまうよ」「貝はどこ?」という風に訳されている。この部分、今まである訳の中では最も巧く訳された例ではないだろうか。
 ただし許せない点がある。チェスの図が巻末に持ってこられているのだ。後から見た方が解りやすいと思ったのだろうが、それこそ要らぬ気遣いだ。訳者の方針か編集の方針か知らないが、どうしてこんなことをしたのだろうか。
 2005年10月に福音館文庫に入り、安価に入手できるようになった。チェスの図が巻末に持ってこられているのは福音館文庫も同様。

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『鏡の国のアリス』北村太郎・訳 王国社

 あの、怪訳『アリス』の『鏡の国』。今回は言葉遊びに多少の気を遣っている。とはいってもこれが中途半端。前回に比べ少しは進歩しているものの「これが詩人の訳かねぇ」と、首をかしげてしまう。例の「話し言葉による」訳文も、『ふしぎの国』の時ほどのパワーが感じられない。それと本文に「〜だよ」が多くて非常に耳障りだ。大体、話し言葉で「よ」をそんなに連発するとは思えないんだよ。訳としては失敗作と考えざるをえまい。もう少し練ってから出して欲しかった。

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『鏡の国のアリス』中山知子・訳 フォア文庫

 さて、『ふしぎの国』同様、この訳も取り立てて特徴がない。だが、少々気になる点もある。一つはHattaとHaighaの訳。確かに『ふしぎの国』との関連を暗示(いや、明示か)している名前ではあるが、そのままぼうし屋と三月ウサギという名前で訳してしまうことには疑問を感じる。
 それと、チェスの進行図が省かれている。それでいながら巻末の解説では『鏡の国』がチェスを下敷きにしていることを説明しているのだから、なんとも無理を感じる。角川文庫版の場合は時代も古いのでまだ話が解るが、この訳は1992年のもの。問題があるのではないだろうか。

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『鏡の国のアリス』宗方あゆむ・訳 金の星社

『不思議の国』と同様、この本も横書きである。おそらく挿し絵が大きなウエイトを占める原書の形式を忠実に守りたかったのであろうが、多少引っかかるものを感じる。
 この訳も中山訳同様HattaとHaighaを帽子屋、3月ウサギと訳している。この点に対しては疑問のあるところだ。また、この本、原文の何カ所かが削除されている。言葉遊びの部分なので、もしそれが理由で訳していないとすれば問題ではなかろうか。

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『鏡の国のアリス 新訳』佐野真奈美・訳 ポプラ ポケット文庫

 『不思議の国のアリス』出版150年記念ということで、『不思議の国のアリス 新訳』と同時発売された。訳者、イラストレーターも同じなので、ラノベ風の文体、ラノベであってもおかしくないイラスト、そしてページ下のアリスの道程と手会うキャラクターを描いたシルエットはここでも同じ。
 この本は巻末の詩をアクロスティックで訳している。各行の頭(一行だけ二文字目)を読んでゆくと、「アリス・プレザンス・リデルにささげるものがたり」となる。HaighaとHattaの訳はウサギィとボウシャとなっている。
 同じ訳者の『不思議の国』で、この訳者が時として原文の言葉遊びを知りつつ、あえて訳していない部分があると書いた。『不思議の国』より言葉遊びの多い本作では、それが目立ってくる。例えば第三章の蚊との会話では、出来る限り言葉遊びを訳している。しかしこれが第八章、白のナイトとの会話となると、一転、言葉遊びを外し、そこを、あたかも言葉遊びが最初からなかったかのように書いている部分が目立つ(それどころか、ここでは日本の子供が解らないと思ったのか、「パンチとジュディ」の比喩すら外している)。アリスに髪をしっかりと留めておくよう白のナイトが言う科白。この辺りは風が強い、「as strong as soup」の部分、この言葉遊びとアリスの返答をばっさりと切っている。あるいは白のナイトが自分の兜の中に落ち込んだ話をする部分。兜に自分がしっかりはまってしまい「as fast as――as lightning」と言って、その意味のfastじゃないとアリスが返す部分も「すっぽりはまっていたから、大変だったのだ!」と、原文の洒落は跡形もない。別のギャグやユーモアで笑いを取っているわけでもない。第六章でハンプティ・ダンプティとアリスが会う場面で、ハンプティ・ダンプティが非誕生日のお祝いを貰ったというのを聞いて驚いたアリスが「I beg your pardon?」といい、ハンプティ・ダンプティが「I'm not offended」と返答するところは、この二つの科白をまるごとカットしている。一方、同じく「I beg your pardon?」の使われる第七章での白のキングとの会話では「I beg your pardon?」「It isn't respectable to beg」の部分が「ええと、すみません」「あやまられるようなことはしておらん」と訳されている。原文からするなら、この訳こそハンプティ・ダンプティの場面で使うべきであったのに。同じ章のNobodyの処理、自分が追い越したものはnobodyだというウサギィに白のキングが「Nobody walks slower than you」と言う部分、nobodyを「ダレモ」と訳しているのはいいのだが、文全体の訳が「じゃあ、ダレモ≠ウんは、おまえよりも足がおそいということだな」となっている。これではウサギィが、自分が足が遅いと言われたと思い込む表現とはならない。
 また、「ジャバーウォッキー」の冒頭四行とハンプティ・ダンプティによる解説ではgyreに当たる言葉と解説がない。Wabeのところは鞄語として訳す代わりにアリスの間違いをハンプティ・ダンプティが訂正するという形にしている(ギャグにはしているのだが)。そして、momeにあたる言葉も、それに対する解説もない。はたしてこれでJabberwockyを訳しているといえるだろうか?
 そして、ある意味とんでもない誤訳がある。それは第三章の名なしの森。自分の名前を忘れたアリスが思い出そうとする。ここでアリスは自分の名前がLで始まることだけを思い出す。これはアリスの姓Liddellの頭文字であるのだが、無難に訳す訳本では素直に「L」、日本語に移そうとする訳本では、「リ」と訳される部分。しかし訳者はここで「ラ……ラで始まるのはわかってるのよ!」。もちろん、ここに書かれているのは「ラ行」で始まるという意味ではない。ちょっと信じられない誤訳だ。
 あと、これは翻訳の問題ではなく、テニエル以外の挿絵をつかった、一種の宿命ではあるのだが、「仕掛け絵本」としての部分が全く無視されている。鏡を抜けるアリスのシーンもそうであるが、非常にまずいのは、アリスが赤のクィーンを捕まえてゆさぶり、猫にして目覚めるところ。原書のように仕掛け絵本的な工夫をしろとまではいわないが、この訳書では第十章と第十一章が同じページにある。ここはページを改めないといけない、そして可能であるならページをめくるように配置するべきところ。原書では、その効果まで考えて、たった一行の章を作っている。キャロルを訳すというのは、そういう部分にまで神経をつかうということなのだ。
 同じ訳者の『不思議の国のアリス』が、文句はつけながらもそれなりの水準であるのに比べ、こちらは、勉強不足の感が強い。

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『鏡の国のアリス』杉田七重・訳 西村書店

 二つの『アリス』を言葉遊びだけで比較すれば、『鏡の国のアリス』の方が断然多い。それだけに訳者がどれだけ原文の言葉遊びに気付き、それを日本語にするか、というのが評価の一つとなる。
この本はどうか? 充分健闘したと言えるのではないか。時に先人の訳を参照したなと思われる部分も見受けられるが(""ass, with case"を「子われもの」とか、headがある、を「弱り切手」とか)、オリジナルと思われるものも多い。生きている庭の柳の木が危険を知らせる部分、「木がハッパをかけてくれる」「ドカンと一発」と処理している。鏡の国の昆虫では、他二つが今一つであるものの、snap-dragonflyを「トンボ火ニ入ルクリスマスノムシ」としているのが、苦しいながらも出色。一方、flower――florは訳を諦めている。
 巻末の詩は、各行の頭の文字を読んで行くと「おおい、アリス、鏡の国は楽しかったかい」となるようにしている。
 登場人物ではHattaとHaighaをウザキとボーシャ。ウザキと白の王の対話に出てくるNobodyが速い/遅いの論法は、素直に「"誰もいない"」と引用符で囲んで名詞のように解釈出来てしまうという方法を見せている。単純だが効果的だと言えよう。  詩の翻訳については、『不思議の国のアリス』と同じく韻を意識して訳しているものが見られるが、詩全体から見れば比率が低くわざわざ韻に傍点を付しているだけに却って「他は?」と、物足りなさを感じる。
 全体に悪い訳ではないと思うものの、二つ、とんでもないミスをしている。トゥイードルダムとトゥイードルディーの章に入る前、前章最後の文が「一瞬後ずさったものの、すぐ落ち着いて、この人たちがそうにちがいない、と確信した。」と、文を完全に閉じた上に句点まで打っている。これでは本文が次章のタイトルに続くというキャロルの工夫が台無しだ。それと物語の最後。アリスは夢を見たのがどちらかと悩むのだが、最後の一文が「はたしてあれは、誰の夢だったのか?」となっている。ここは原文では「Which do you think it was?」と、わざわざyouを強調して「(読者の)君はどう思う?」と、作者が直接読者に語りかけている部分。アリスの思考の中味ではない。ちょっと信じがたい誤訳といえる。ここが訳の価値を大きく下げている。出来ればこの二ヶ所だけでも修正できないものか。

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『鏡の国のアリス』久美里美・訳 エスクァイアマガジン・ジャパン、国書刊行会(新装版)

 同じ出版社による『不思議の国のアリス』と同じく、ビニールパックの箱にはシュヴァンクマイエルの名前が大きく記され、小さく「著=ルイス・キャロル」と書かれている。訳者の名前は書かれていない。シュヴァンクマイエルの絵になる絵本として出版社は出しているのであろうが、物語を愛する者としては、この原作者軽視、訳者軽視の姿勢は、やはり引っかかる。ここでもシュヴァンクマイエルの本ではなく、訳書として見て行く。
 『不思議の国のアリス』同様、この訳でも、過去の訳書から引っ張ってきている訳語が目立つ。特に「ジャバウォッキー」の第一連など、「どこかでみたような」という既視感が感じられるのではないか。訳者が専門でないが故に既成の訳を使う、それにより訳に安定感が出ているのは事実だが、その量の多さは、やはりバランスを失していると考えざるを得ない。
 もともと訳者がキャロルを専門にしていないためであろうか、既成の訳をベースに独自色を出そうとした部分で、言葉遊びになれていないが故の悪手を指してしまうところが目立つ。例えば、白の騎士が兜の中に嵌り込んでしまう部分での. "I was as fast as ―― as lightning"という部分。ここで訳者は「ぴかりとはまっておったのです――稲妻のごとく」と訳し、アリスの指摘のほうで「それならぴたりと、でしょう」としている。これでは冗談の落ちを先に云ってしまうようなもので、キャロルの洒落が台無しだ。また、登場人物が「国語」の意味で使っているEnglishを、単純に「英語」と直訳したがために"Fiddle-de-dee's not English"という部分が「『すっとこどっこい』は英語ではありません」と訳されてしまっている(そりゃ英語の筈はない。日本語なんだから)。ハンプティ・ダンプティのマザーグースの訳にしても、各行を長い文で訳しているため、最後の行のみが長いというわけではなくなっている。そのため、アリスが「詩にしては最後の行が長すぎるわね」という言葉が意味をなさない。Hatta, Haighaはぼうし屋、兎ちゃぎと訳されている。おそらくは柳瀬訳をアレンジしたのであろうが、Hattaは、そのまま『不思議の国』の帽子屋と同じ訳語になってしまって、キャロルが名前のスペルを捻った意味がなくなってしまう。確かに久美訳では『不思議の国』では帽子屋、『鏡の国』ではぼうし屋と書き分けてはいるが、普通読んでいて、これを書き分けだと意識できるだろうか? やりすぎの感は大いにあるにせよ、柳瀬訳でわざわざ当て字を使った理由を訳者は理解できているのだろうか?
 もう一つ気になった点として、『アリス』を知らないが故の誤訳がある。1897年版の前書きを訳出していることは大歓迎なのだが、その中のNursery 'Alice'について「子ども向けの「アリス」」(原文では「子ども向けの……」には括弧なし)としているのは誤訳を云わざるを得ない。Nursery 'Alice'が書名であることを理解していなかった、あるいは、既に訳書が出ていることを知らなかったのであろう。
 やや些事にわたった批判ではあるが、訳文全体の出来は、柳瀬訳以降初めての「だ・である」体がシュヴァンクマイエルのイラストにも合い、細かい文句はあるものの、安定感はある。決して酷い訳というわけではない。原文ではアクロスティックになっている巻末の詩は、各連の頭を取って行くと「アリスとわたし」となるようにしている。芹生訳矢川訳と同趣向であるが、努力は認められて良い。
 ただ、シュヴァンクマイエルのみで売ろうとしている出版社の本作りの姿勢については、『不思議の国』同様、再考をお願いしたい。

(2011.2.21追記)
 2011年2月21日に、国書刊行会より新装版が発売された。旧版が化粧箱入り、ソフトカヴァーだったのに対して、新装版は化粧箱なし、カヴァーつきのハードカヴァーである。ただし、新装版もビニールパックがかかっており、表紙に訳者の名前がない。シュヴァンクマイエルで売ろうとしている販売姿勢は、出版社が変わっても、変更はないようだ。新装版を出すに当たって、本文が見直されたようで、Nursery 'Alice'は『子供部屋の"アリス"』と、書名であることが判るように修正されている(現行の訳書の訳題とは微妙に違うが、それは許容範囲内であろう)。それ以外に、ここで指摘した点は、特に旧版から変わっていない。

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『鏡の国のアリス』山形浩生・訳 朝日出版社

 評価する点も批判する点も、すべて『不思議の国』の時と同じといえる。
 訳文と言葉遊びの処理は凡百の翻訳に比して、充分に高いものだ。ただ、『鏡の国』では、言葉遊びをはじめ、やや原文に頼っている部分が散見されるのが難と言えば難。本文中に英語のスペリングを挟まれるのは、読んでいて違和感がある。訳者自身が後書きで述べているように、『不思議の国』に比べこちらは漢字の割合が高くなっている。その結果、ジャバーウォッキーなどでは、「漢字だらけのおっかない」柳瀬訳を果たして批判できるのか、というレベルにまで漢字が使用されている。
 キャロルの指定にないタイポグラフィ的趣向も、前回通り。今回気になったのは、第3章で列車が川を越すところに、波線が六つ、並んでいることだ。これはガードナーの註釈本の表記ではあるが、もともとのマクミラン版にはない。訳者自身後書きでProject Gutenbergやガードナー版をいろいろと付き合わせて訳したとあるが、ガードナーのオリジナルを、そのまま本に持ってくる形になってしまった。もっとも、これは訳者でなく挿絵画家の責任ではあるが(Web版の翻訳では、波線ではなくアスタリスクになっている)。ブラウザでの<p>タグの表現形式そのままの段落も前回通りである。
 今回の翻訳で特筆するべきなのは、「かつらをかぶった雀蜂」挿話が、当初予定していた場所へ挿入されたことだろう。これにより読者は、当初キャロルの構想した順番通りに本文が読めるわけだ。作者がわざわざ削除したものを、もとの場所へ復活させることには批判もあるだろうが、この試みは認められてよい。ただ、この挿入については巻末で説明されているが、具体的に何ページの何行目からが挿入箇所であるか明記していないのは不親切だろう。一つの試みとして認められる行いだけに、この曖昧な記載は残念といえる。
 さて、通常なら訳文に直接関係のない後書きの批評は翻訳評としてするべきではないのかも知れない。しかし、訳者が自分の訳文について自讃を含めた解説を行っている以上、後書きについての批評もある程度許容されるであろうと考えて、以下に、気になった部分を指摘する。
 訳者は、他の翻訳について「下手」だとこき下ろした上で、高橋康也訳のジャバーウォッキーを批判している。批判について大きな点は、これが仮名のみで書かれているということである。仮名書きの功罪については、ここで論ずる積もりはない。問題なのは、高橋訳ですべて仮名なのは、最初と最後の連だけであることを伏せていることだ。これは高山宏の訳なども同様で、第一連のみすべて仮名書きにすることで、効果を出そうと工夫している。それに対する批判ならそれも問題ないが、本文における漢字と仮名のバランスを論じるに当たって、敢えてこの部分を詩全体から切り離して論じるのはアンフェアの誹りを免れまい。また、『別冊現代詩手帖』のキャロル特集に対する批判にしても、「あたりまえ」のことしか書いていないから「ゴミクズのかたまり」と断じている。訳者のいう「とっても頭が悪」い「ブンゲーヒョーロンカ」がここで書く前は、その「あたりまえ」のことが当たり前でなかったということ、彼らの文によって、今われわれが当たり前と思う内容が当たり前になったという、それこそ「あたりまえ」のことを、無視している(『別冊現代詩手帖』は現在ではその使命を果たし終えた、とか、今となってはすでに内容が古びている、という批判ならこれは批判として真っ当なものだろう)。たとえば、訳者が「あたりまえ」で「ゴミクズ」という『別冊現代詩手帖』と、訳者が大事だと思っている『不思議』と『鏡』の雰囲気の違いについての考察を読んでみよう。果たしてどちらが「あたりまえ」か。
 この訳書のベースになっているプロジェクト杉田玄白の翻訳と解説は2000年に出ているが、それをほとんど変更せずに使用しているため(変更している部分では「かつらをかぶった雀蜂」挿話の発見年代が、なぜか1989年という、間違った年代に修正されている)、前回同様にキャロルが「ロリコン」だという俗説を垂れ流している(しかし、このロリコン説も、日本で有名になったのは、訳者が「ゴミクズ」と言っている『別冊現代詩手帖』の種村季弘の文なのだが)。
 くどいようだが、確かにこの訳文は、充分に質の高いものである。そして、ここで述べていることが「望みすぎ」である可能性も否定はしない。しかし、やはり前回同様に、訳者がここまで自信を持ち、他の翻訳を下手と断じる以上、他の翻訳で許される部分でも批判されるのは仕方ないことであろうと考える。

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『鏡の国のアリス』(『ポケットマスターピース11 ルイス・キャロル』所収)芦田川祐子・訳 集英社文庫

 『不思議の国』同様、非常に読みやすい訳文だ。言葉遊びの処理も、概ね日本語に移し替えている。初版に掲載されながら1897年版で削除された「登場人物一覧」が掲載されているのは珍しい。ただ、原書では登場人物一覧は棋譜の前にあるのだが、この訳では棋譜の後ろに配置しているのが残念。巻末の詩は各行の一文字目を取って行くと「アリス・あああ・リデル」となる。ただ、もともとの詩は21行あったものを9行まで短縮してしまったことには疑問を感じる(高橋康也がこの詩を、一文字目が「アリス・リデル、ルイス・キャロル」として訳したことがあり、その際にも行数を削っているが、それでもまだ詩全体は13行ある)。Hatta、Haighaはそれぞれボーシャ、ツーサギと訳されている。個人的に気に入ったのが、言葉遊びではないが、赤と白の女王がアリスの膝で眠ってしまった後のアリスの科白。

いっぺんに二人の女王様が寝てるのを面倒みなけりゃならないなんて、前代未聞でしょうね! イングランド全史にだってないわよ――無理だものね、女王様は一度に一人きりだったから。
 この「イングランド全史」の原文は「all the History of England」で、多く「全英国史」とか「イギリス史」と訳される。しかし、日本人が普通「英国」「イギリス」という言葉で思い描くのはブリテン島だ。そしてその中にはスコットランドがある。つまり、エリザベス一世の時代まで「イギリス」にはQueenが二人いてもおかしくなかったことになる(その代表的な例がエリザベス一世とメアリ・スチュアート)。だから、ここだけは「イングランド史」と訳さないとおかしくなってしまう。しかし、こう訳された例は少なく、それだけにこの訳はうれしい。
 訳文については概ね満足なのだが、「本」として見た場合、不満が残る。多くの作品を一冊の文庫にまとめたためなのであるが、章が変わってもページを改めることをしていない。そのため第九章の終わりから第十二章の頭までが見開きに収まってしまっているということになり、原書の、赤の女王が猫に変わる場面の「仕掛け絵本」的面白さがなくなってしまっている。いくらかでも二つの絵を対比させようと二枚並べて表示しているのは、まだしも努力を感じるのだが、やはり不満は残る。また、アリスが鏡を抜ける場面も、二枚の絵を見開きに配置している。ここも、ページがそのまま鏡となってしまうような仕掛け絵本の面白さを捨てていると思われる。訳文でアリスが鏡を抜ける場面が、ちょうどページをめくるあたりに来ているので、そのままそこで挿絵を配置していたらと、なおさらもったいない。もし、この話が独立して一冊になれば、そして改ページや挿絵に気を遣った版が今後出てくるなら、そう願ってしまう。

《註記》
 この本を手に取った方はお解りのように、本の口絵の構成を私が担当しています。ただ、手伝ったのは口絵だけで、本の形になるまで、私は訳を読んでいません。そういう点からも、レビューに身びいきはないと思っていますが 、レビューを出すに当たってはフェアにゆきたいと考えておりますので、この点についてあらかじめ弁明しておきます。

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『不思議の国のアリス&鏡の国のアリス ミナリマ・デザイン版』小松原宏子・訳 静山社

 『不思議の国のアリス』と合本になっていて、「仕掛け絵本」として作られた本。『鏡の国のアリス』では、冒頭にチェス盤が折りたたみ式になっていて、後の版で削除された登場人物一覧がある。チェス盤は同時にこの地図になっている。第一章のJabberwockyの詩が別紙の形でも挿入されていて、それがタイポグラフィ的な作品になっている。第四章ではトゥイードルダムとトゥイードルディーの双子の様々な衣装でモンタージュ遊びが出来るようになっている。第六章ではハンプティ・ダンプティの絵が、レバーを回すと卵になる。また、これは仕掛けではないが、絵本としての面白い工夫が、第十・十一章になる。ここが見開きで、左が第十章、右が第十一章になっている。そして見開き全体を使ってアリスがキティを捕まえているのをアリスの背後から絵にしている。キティはちょうど真ん中になっている。原書の仕掛けとは違うが、見ていて面白い。難点をいえば、第一章でアリスが鏡を抜ける場面に絵がないことか。
 言葉遊びの訳も何とか訳そうとしている。Rocking horse-flyは「木馬エ」としているのは上手い。Hatta, Haighaはボウシヤ、ウサギィと訳される。ただ一点、第一章の題Looking-glass Houseを「鏡の中の家」と訳すのは疑問。これは鏡のある家で、その鏡の中にも同じように家があるのだから、単に「鏡の家」でも良かったのではないか。
 詩については『不思議の国』のような日本語でのパロディはない。それは少し残念ではある。
 ともあれ、見ていて楽しい本だ。


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『鏡の国のアリス』楠本君恵・訳 論創社

 本書を読む前に不安というか、どうなるのかと思っていたことが二点あった。一つは「文体はどうなるのか」、もう一つは「登場人物の名前はどうなるのか」ということだった。前者は最初に出た版草間彌生版コンプリート・イラストレーションズ版で文体を変えて訳しているからだ。後者は、こと『鏡の国のアリス』ではあまり考えにくいのではあるが、「ハッター」といったような、名前を訳さず原文の仮名書きで提示する名前があるかということ。もっとも、後者については、そもそもチェスの駒なので「キング」「ナイト」で問題ないとは思えるし、羊を「シープ」とはすまいと思い、杞憂気味の心配ではあった。
 後者については杞憂に終わった。訳者は「王」「女王」という訳語に対し、最初だけ「キング」「クイーン」とルビを振り、以降は訳語で通すという方針を貫いている。前者は最初の版と同じ文体を採用している。文は非常に読みやすい、児童向けの自然な文体である。
 言葉遊びについては、概ね日本語として処理をしている。中には柳の枝がBough-wough!と鳴く、というのを「枝をゆらゆら揺するの!」と(言葉は悪いが)逃げている部分もあるが、概ねしっかり笑いに結びつけて訳している。巻末の詩は、一行おきに頭の文字を読むと「アリス・プレザンス・リデル」となる。
 ただ、今回も二点ほど気になる部分がある。
 最初はJabberwockyの訳だ。冒頭の四行については、アリスが読んで謎に思うというのが重要であると思われるし、実際、原文で使われている言葉はハンプティ・ダンプティの解説を聞かない限り読者にはちんぷんかんぷんである。さて、今回の訳では、一行目の訳はこうなっている。

夕げのごちそうあぶり始める申の刻
 もちろん、以降の行ではキャロル流の鞄語で訳されている言葉も多いが、同時にこういった「訳しすぎ」の語も見られる。この点については疑問に感じる。  もう一点、気になるのが、今回訳者が実験的に取り入れた新機軸だ。訳者あとがきにこうある。
今回私は何か所か思い切って片仮名のルビで表現しました。例えば、頭にヘッドと仮名を振りました。ヘッドには別の意味もあることを使って遊んだ原文をより正確に伝えたかったからです。また、粉にフラワーと振ったのも、同じ発音をする別の言葉を伝えるためでした。
 もちろん訳者は考えた末にこういう工夫をしたのだと思う。しかし、これは言葉遊びを訳すことを放棄し、仮名で表して良しとするような訳と、外見上、どう違うのだろうか? 『不思議の国のアリス』の時にも感じたが、一歩前に進もうとして、逆に外見上半歩以上後退した印象を受ける。先を走ったはいいが、トラックで半周先行しようとして半周遅れに見えるというか。この後書きがなければ、これは訳者の工夫ではなく手抜き、あるいは諦めとしか読者の眼には映らない。そして、後書きは翻訳という作品の一部分ではない。  もちろん、そういう工夫のされた部分は全体のごくごく一部である。多くの言葉遊びは日本語の言葉遊びに処理されている。そうなると、この訳者後書きは、先に後書き読むような読者には却って先入観を与えかねないのではないか。なんというか「一言多い」、という印象が強い。
 もちろん、これは重箱の隅をつつくレベルの注文であり、望蜀の類の注文である。訳者の楠本先生とは個人的にも親しくさせていただいてるが、敢えて指摘する次第。

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『鏡の国のアリス』矢川澄子・訳 新潮社

 また、新潮社だ。今回も一と月遅れ。まったく、何を考えてるんだか……。
 この訳、ますます「話し言葉」に磨きがかかっている。『不思議の国』の時には「〜ね」というのが多少耳障りだったが、今回はそれほどでもない。そういう意味では北村訳と好対照だ。言葉遊びも結構上手に処理している(でも、Nobodyを「ダレモイマサン」は、ちと苦しいなぁ)。
 折り句になっている跋詩は、完全には折り句に出来なかったようで、各連の頭を取って行くと「アリスわが愛」となる。が、自分の詩集の頭には(人から贈られたとはいえ)「ALICE SUMIKO」とやっているのだから、もう少し頑張って欲しかった。
 HattaとHaighaはボウシヤ、ウサキチと訳されている。このほうが日本語として読みやすい。
 全体として読みやすいし、挿し絵も味がある(ドゥシャン・カーライ)。値段さえ高くなければ薦められるんだけど、5,500円じゃねぇ……。


『鏡の国のアリス』矢川澄子・訳 新潮文庫

 『不思議の国』同様、イラストは金子國義。値段も手頃であり、訳も申し分ない。間違いなくお薦めの一冊。

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『鏡の国のアリス』安井泉・訳 新書館

 この訳者の美点は、翻訳を感じさせない透明な文体にある。直接、キャロル本人が語りかけてくるような、そういう文章だ。作者の語りかけを重視した翻訳としては、以前にも北村太郎の訳矢川澄子の訳があった。これら二つの翻訳は、「語り」を文章化するために、話し言葉を地の文の訳に採用していた。安井訳では、そういった細工をしていない。典型的な童話の文体である「です、ます」体を使っている。しかし、その文を読んで感じられるのはキャロルの声なのだ。これはなまなかなことではない。一見、なんでもない文章の下に、作者の並々ならぬ工夫が伺われる。
 言葉遊びも、ちゃんと日本語に訳している。巻頭の詩の最後に原文で「pleasance」という単語がある。これはアリスのミドルネームを掛けているのであるが、それを日本語に訳した例は、これを含めて三例しかない(あと二つは柳瀬尚紀訳の『鏡の国のアリス』高山宏訳の『新注鏡の国のアリス』)。また、第二章の花とアリスの会話にある、bedがふかふかだから花は眠り込んでしまう、という部分、これを日本語に移した例は、『鏡の国のアリス』の訳書では、少なくとも自分の知る限りでは存在していなかった。そういった点は大いに評価するべきであろう。Haigha, Hattaの二人組については、Haighaは「ヘヤ」のまま、Hattaは「ボウシャ」と訳されている。言葉遊びの翻訳について、あえて難点をいえば、巻末の詩のアクロスティックについて註で触れているだけであるということであろうか。ただ、これについてはアクロスティックを日本語にした『鏡の国のアリス』が高山宏訳のもの石川澄子訳のものしかない、ということ、むしろキャロルの感情を訳出するために、敢えてアクロスティックを訳すことをしなかったという、訳者の意向があることなどから、難点というよりは敢えて「蜀を望む」類のものではあるが。
 この訳書でもう一点特筆するべきなのは、原テクスト選択に際しての書誌的な正統性であろう。いわゆる流布本を使用せず、キャロルの存命中最後の版である1897年版を底本にしているのだ。そのため、1897年版以降削除された登場人物表(チェスの配置に見立てられていた)は訳註に移行されている。挿絵も、一枚を除き1897年版から採られ(残りの一枚は、初版から採られている)、原書の原寸大で印刷されている。印刷も良質の紙に映え美しい。原書ではアリスが小川を越える場面に三列のアスタリスクが印刷され、それが川を表しているのだが、マクミラン版の『鏡の国のアリス』では、最初の小川だけアスタリスクの数が5-4-5の三列で、あと五つの小川は6-5-6のアスタリスク三列となっている。これは初版でも1897年版でも変わっていない。この訳本ではちゃんとマクミラン版と同じ数が印刷されている。アスタリスクの数までちゃんと再現させた翻訳は、自分の知る限りこの訳書だけだ。1896年クリスマスとの記載のある前書きも訳されている。そして、原書の特徴でもある「仕掛け絵本」の部分も再現されている。アリスが鏡を抜ける部分の挿絵を実際にページをめくりながら見て頂きたい。また、第10〜11章の、アリスが赤の女王を揺さぶって猫にする部分、ここを、本文の印刷されているページをめくったり戻したりして、キャロルの工夫を感じて頂きたい。難を挙げるとすれば、本文領域の下に印刷された飾り模様だろう。これだけは原書には存在しない。『地下の国のアリス』でも本文領域の下に飾りが印刷されており、それと合わせる必要からこの訳書でも飾りを印刷したのであろう。充分に理解できることではあるが、残念といえば残念でもある。それともう一点。裏表紙に「M」のような模様があるのにお気づきだろうか。これは登場人物表を1897年版から外した時に、もともと表のあった位置(チェスによる進行図の前のページ)にはめ込まれた模様なのだ。この模様が邦訳で登場したのはこの本を措いてない。その点は評価できるが、もとあった位置に印刷されていないという点は残念だ。ただ、これはテニエルの絵とは違い、本文とは何の関わりもないものであるだけに、大きな問題とはいえないが。
 書誌的な意味から、もう一点註記するべきこととして、本文に加えて「かつらをかぶったスズメバチ」の挿話も、この本には収録されている(当然、本文とは別立てである)。もともとキャロルがこの挿話をどこに入れる予定であったかを、この訳書の該当ページの縮小図を貼り込んで説明しているのも解りやすい。その上、訳文を実際に該当箇所に入れた場合にも自然に文が繋がるように訳されている。最近は「かつらをかぶったスズメバチ」挿話を訳出する訳書も多くなったため、以前ほどの希少性はなくなったが、うれしい附録であることには違いない。登場人物表やこの「かつらをかぶったスズメバチ」挿話の扱いでも解るように、底本を1897年版に置き、本文について書誌的な正統性を担保しつつも、そこに入っていない情報についても、日本語で読めるように工夫されている。
 書誌的にも信用でき、読み物としても面白い、そういった訳書の出たことを喜びたい。

《註記》
 この本を手に取った方はお解りのように、これも『地下の国のアリス』同様、私が関わっています。仲間褒めはしていない積もりですが、身びいきの出ている可能性は否定できません。とはいえ書誌的な信用については保証できますし、訳文についても、お奨めできるものであると思っています。レビューを出すに当たってはフェアにゆきたいと考えておりますので、この点についてあらかじめ弁明しておきます。

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『鏡の国のアリス』柳瀬尚紀・訳 ちくま文庫

 とりはこの人にとってもらう。「だ・である」体で訳した唯一の『鏡の国』。
『不思議の国』もそうであるが、訳者は「中学生以上」を対象に訳したそうだ。だからこそ余分な註を省くことも可能になったのだが、反面子供には薦められない。
 もっとも、子供が全訳の『アリス』を読むかどうかとなるといささか疑問だ(向井元子氏によると『不思議の国のアリス』が「子供が読まない名作」ベスト3に入るそうだ。『不思議の国』ですらそうなのだから、『鏡の国』などリライトでも読まれるかどうか怪しいものだ)。それなら『アリス』を読み損ねた大人のための訳があったっていい。大人が(あるいは少しませた子供が)読む『鏡の国』としては、おそらく最高のものといえる。訳者をして二つの『アリス』を訳さしめるもとになった柳瀬尚紀の飼い猫、今は天国にいるトリケに読者は感謝すべきであろう(また谷沢永一だ)。
 ところで一つ注文。『鏡の国』の跋詩の折り句だが、この訳では折り句に訳されていない。他の人ならともかく『シルヴィーとブルーノ』の献詩で「アイザ・ボウマン」を折り込んだ人がどうしてここではやらなかったのか。出来るならこの部分だけ訳し直してもらえないものか(『シルヴィーとブルーノ』の時にはアイザ・ボウマンを折り込んだ改訳を出したのだから)。


Wasp in a Wig

『かつらをかぶった雀蜂』柳瀬尚紀・訳 れんが書房新社

 訳、原文、校正刷、マーチン・ガードナーによる解題・註、テニエルからキャロルへの書簡が収められている。
 以前なら『鏡の国』に興味のある人に必ず薦めていたのだが、新注鏡の国のアリス』が出版されて少し事情が変わった。上で云ったものは、原文を除き総て新注鏡の国のアリス』にも収められているのだ。この本のみに収録されているのは原文(ガードナーの註付き)とキャロルの未発表スケッチのみ。複数の訳を比較するという意味はあるものの、「かつらをかぶった雀蜂」の挿話を読める唯一の本という価値はなくなった。
 なお、筑摩書房『ルイス・キャロル詩集』にも付録として「かつらをかぶったアブ」という題で高橋康也氏の訳が収められている(ちくま文庫版の『ルイス・キャロル詩集』には入っていない)。

Alice's Adventures Under Ground

『不思議の国のアリス・オリジナル』高橋宏・訳 書籍情報社

 パヴィリオン・ブックスから出ているファクシミリ版を底本にしてそれの訳とAlice's Adventures Under Groundの軽装本(英語版)をセットにしたもの。本文の訳はお世辞にも素晴らしいとは云い難い(洒落が全く訳されていない)。Alice's Adventures Under Groundが日本語で読める、ただそれだけの本。訳がこれ一つだし原書を買う方が高くつく(ドーヴァー版は別だが)ので「やめときなさい」とは云わないが……。

(追記)
長い間品切れだったこの本だが、2002年12月に黒柳徹子の序文を新たに収録した上で「新装版」として復刊された。
(追記2――2005.2.18)
2005年2月に安井泉訳『地下の国のアリス』が新書館より発売された。それにより、この本が唯一のAlice's Adventures Under Groundの翻訳ということはなくなった。

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『地下の国のアリス』安井泉・訳 新書館

 Alice's Adventures Under Groundの翻訳として『不思議の国のアリス・オリジナル』が書籍情報社から出されているが、これは翻訳というよりは、むしろAlice's Adventures Under Groundと日本語訳による作品解説といったようなものであった。それに対し、この本は翻訳書としての『地下の国のアリス』である。その結果として縦書きという読みやすいレイアウトになったのだが、反面オリジナルの本の体裁からは離れてしまった。しかし、上質の紙を使用した上で紙の色を非常に薄い(一見、白と見まがうくらいに薄い)クリーム色にし、黒インクで文字やイラストを印刷しているため、目に優しく、非常に美しい本となっている。キャロルのイラストも彩色されている部分は原本同様に色刷りである。色刷りの部分は、現在残っているキャロルのイラストの色を再現したために線が濃いセピア色になっている。そのため、色刷りの絵だけが、やや浮いた感じになっている。とはいえキャロルにしても最初から褪色したインクで手書き本を書いたわけではない。レトロ趣味を謳ったり複写本を出すというのでない限り、本として出す場合には黒のインクを使用するのは正解といえる。その結果として色刷り部分のみ線がセピア色になってしまうのはやむを得ないであろう。装丁もきれいで、独立した翻訳書として見た場合には非常に良い造本といえよう。
 「透明な翻訳」とはこういう訳文をいうのであろうか。通常、「名訳」と呼ばれるものには、どこかしら訳者の個性が出ていることが多い。逆に、そういった癖のない翻訳というのは、読みやすい反面、「食い足りない」ような感じが出てくる。この翻訳では訳者の体臭のようなものは全く感じられない。だからといって通り一遍の「癖のない翻訳」のような訳文でもない。敢えていえば「翻訳の存在を全く感じさせない」訳文なのだ。これは、英文が透けて見えるような翻訳というのではない。もしキャロルが生きていて、日本語で書いたとしたら、こんな文章になるのではないかと思わせる文である。言葉遊びについても日本語に移し替えており、自然に読める翻訳になっている。訳者は小学館『ユースプログレッシブ英和辞典』の編纂も行った英語学者。言葉そのものを専門とする訳者の美質が訳文に出た、そういった観のある翻訳だ。
 読み物としても良質の読み物になっているが、同時にこの本は書誌的にも貴重な資料となっている。Alice's Adventures Under Groundは1886年に複写版がマクミランから発売されている。その際キャロルは本文に加えて「序文」とその追記、「復活祭の挨拶状」の三つの文と、「クリスマスの挨拶状」という一つの詩を収録した。今回の翻訳ではこの四つの詩文がすべて翻訳・収録され、本文についての「完全版」となっている。
 さらに書誌的な話を続けると、Alice's Adventures Under Groundの最終ページにアリスの写真が貼られていたことは有名であるが、その写真の下にはキャロル自筆によるアリスの似顔絵が描かれていた。また、1886年のマクミラン版では、アリスの写真はなく、「THE END」の文字に置き換えられていた。訳者は大英図書館で実際にキャロルの手書き本を調査したことがあり、解説ではその経緯と結果、特にアリスの写真の貼られたページと最終ページについての秘密が詳しく、解りやすく書かれている。
 また、この本で註記すべきなのは、キャロルの本名であるDodgsonを「ドッドソン」と、実際の発音に即して表記したことだ。今までも、実際にはドドソンあるいはドッドソンである旨に触れた解説があったが、通常使われている「ドジソン」を使わず、ドッドソンで通した点は、記憶されてよい。
 敢えて蜀を望む点を挙げるなら、この本にはキャロル自筆の「Alice's Adventures Under Ground」の中扉とその裏の「A Christmas Gift to a Dear Child in Memory of a Summer Day」と書かれた部分が本文として収載されていないことであろうか。英語の複写本ではなく、日本語としての『地下の国のアリス』を出す以上、すべてが英語の中扉をそのまま掲載するのは、却って全体から浮き上がってしまうと思われるだけに、この要求が無い物ねだりであることは充分に理解しているのだが……。
 普通にAlice's Adventures Under Groundを読んでみたい人、専門的なことを知りたいマニア、どちらの読者にもお奨めできる本だ。

《註記》
 この本を読んだ方はお気づきでしょうが、1886年版の資料提供者として私の名前が謝辞に出ております。私もほんの少し関わっているわけで、自分が一部とはいえ関係した本をここで褒めていることになります。本レビューで、いわゆる「仲間褒め」をした積もりは一切ありませんが、無意識のうちに身贔屓が出ている可能性は否定できません。しかし、私としては本の構成、解説など、これこそ自分の読みたかった『地下の国のアリス』だと、本心から思っています。訳文の見事さについても同様です。レビューを出すに当たってはフェアにゆきたいと考えておりますので、この点についてあらかじめ弁明しておきます。

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The Nursery 'Alice'

『アリスのふしぎな夢』すえまつ ひみこ・訳 西村書店

 これはフランス語訳からの重訳。酒寄進一訳『不思議の国』もそうだが、わざわざ英語の本を別の外国語に訳したものを底本にする理由が解らない。ひょっとして、この出版社の方針なのだろうか。
 訳文は結構読みやすい。横書きというのが少し引っかかるが、それは挿し絵に合わせたせいであろうか。その挿し絵であるが、テニエルのものではない。なかなか味わいがあるのだが、ことこの話についてはテニエル以外の絵(というか、もとの本以外の形式)が果たして良いものであろうかという疑問がある。この訳にしてもこの話の「しかけ絵本」なところが犠牲にされている。
 訳、挿し絵ともに「興味のある人にはどうぞ」といったところであろうか。

(2010年5月30日追記)
本書は2010年5月に「新装版」が刊行された。

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『よみきかせ ふしぎのくにのアリス』小柴一・編訳 新樹社

 タイトルこそ『不思議の国のアリス』のようになっているがNursery 'Alice'の翻訳。「編訳」とあるのは一部省略されている部分があるため。
 彩色されたテニエルのイラストを主体にして、それにキャロルが文を付けてゆく、とでも表現したいような「絵」と「文章」の絡み合いの妙がNursery 'Alice'の特徴に挙げられる。この訳ではイラストがテニエルではなく、同じ新樹社版の楠悦郎訳『不思議の国のアリス』で使用された作場知生の挿絵が使われている。『不思議の国のアリス』の挿絵をそのまま使うという点では、キャロルと同じ行き方をしたともいえるが、そのかわりにテニエルの絵を前提とした記述(キツネノテブクロの講釈や陪審員の説明でテニエルの名前を出しているところ)が省略されている。しかし、困ったことにそれが中途半端で、イラストに関わるかなりの部分が原文に忠実なのだ。さすがに第一章で「ウサギが震えている」部分は、絵のある場所を指定して「ほんのカバーをちょっとゆすってごらん」とある(実際にはウサギの絵は章扉)が、イラストがすべて白黒であるため、絵の説明でキャロルが一所懸命色について説明している意味が解らなくなっている(これは他の章も同じ)。また、チェシャ猫のところでは「ページの縁を持ち上げるとアリスがニヤニヤ笑いを見上げている」部分が(当然、イラストが違うために)なく、単純に「よくみてごらん。ほら、アリスがにやにやだけをみてるでしょ」となっている。ところがそんなイラストはなく、あるのはチェシャ猫をアリスが見上げている図のみなので、訳文が全く訳の解らないものになってしまっている。気違いお茶会の場面でも、キャロルが三月ウサギの頭に着いている藁の説明をしているがイラストに藁がないし、ティーポットがテニエルと違って帽子屋のそばにあるため、三月ウサギのミルク入れがティーポットの陰に隠れている、という説明が意味をなさなくなっている。また、イラストでは黒で無地のボウ・タイをしている帽子屋が、本文の説明ではテニエルのイラストにある「赤の水玉の黄色いネクタイ」となっている。バラをペンキで塗っている絵では、本文とバラの数が違ってきているし、エビのカドリールでは、該当する挿絵がない。
 要するに「本文と挿絵が絡み合っている」というNursery 'Alice'の特徴を、この訳では全く活かし切れていないのだ。訳文は悪くないが、中途半端に原文に引きずられてしまった結果であろう。イラストをテニエルのものと差し替えるなら、いっそ、本文もイラストに添って大幅に変更するべきではなかったか。一般の翻訳では許されないことではあるが、ことこの本の翻訳ではそうした行き方こそ、キャロルの望むものではないだろうか。「編訳」とした以上、それだけの大鉈を振るうことも可能と考える。

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『こども部屋のアリス』金原瑞人・訳 リトルモア

 清川あさみ絵本シリーズの一冊として出版された。キャロルの作品ということもさることながら、あくまで本としては清川あさみの絵本という位置づけだ。訳者は金原瑞人。訳文にも力を入れている。
 もともとNursery 'Alice'は、テニエルの絵を主体にキャロルがお話をつけたような部分がある。それゆえ、絵が主体となるこの本の姿勢は、ある意味で原書の心を引き継いだものといえる。絵を見せながら子供に読み聞かせる本。訳者もそれを心得ていて、そのまま読み聞かせに使えるような文体で訳している。絵(正確にはいろいろな材料を用いて作った場面――ジオラマような――を写真撮影したもの)も、原書に比べて遥かに多い上に、すべて美しいカラー印刷になっている。
 ただ、この本のようにテニエルの絵を使わずに作られた本でキャロルの本文を訳すとなると、どうしても避けて通れない部分がある。キャロルが絵について説明している部分をどう訳すか、だ。『よみきかせ ふしぎのくにのアリス』では、この部分の処理が中途半端なため、本文と挿絵がしっくりとなじんでいなかった。その点、本書で訳者のとった行動は素晴らしい。絵についての説明の場面では、清川あさみの挿絵に即して説明しているのだ。だから、白兎の衣装の説明も、微妙にテニエルと異なる。しかし、それによって、本文と挿絵が一体となる。また、第13章で、原書ではテニエルの名前が出てくるところも、ちゃんと「清川あさみさんは」と、名前を差し替えている。この工夫は嬉しい。
 本書で敢えて難をいうなら、アリスとチェシャ猫の場面。原書ではページの下をめくると消えかかったチェシャ猫をアリスが見上げる形になっているのだが、この本ではそうなっていない。確かに訳文では「このページの右端をおるとアリスがにたにたをながめてるところがみえるよ」と書かれていて、右端をそのまま折るとアリスが現れるのだが、チェシャ猫の笑いが存在しないため、アリスが虚空を眺めているようになってしまい、本文と整合しない。これは残念な点である。それともう一点、巻頭の献詩が訳されていない点。これも残念。良くできた本であるだけに、この二点はなんとももったいない。あと訳文で、トカゲのビルを「ビリー」、グリフォンを「グリュプス」と訳しているのも、やや引っ掛かる。
 とはいえ、全体として良くできた訳書であり、テニエルの挿絵ではないが、充分に楽しめる本であるといえる。

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『子ども部屋のアリス』(『ポケットマスターピース11 ルイス・キャロル』所収)芦田川祐子・訳 集英社文庫

 訳文で最初に感じるのが「潔さ」だ。『不思議の国のアリス』と同じ本に収録されることが前提の訳でいながら、全く別の本という意識で訳文を作っている。たとえばハートの王と女王。『不思議の国』では「王様」「女王様」の日本語に「キング」「クィーン」とルビを振っている。だが、この訳ではそれぞれ「おうさま」「じょおうさま」とルビが振られている。また、caucus-raceも『不思議の国』だと「周回(集会)競走」としていたが、こちらはコーカス競走としている。こられを不整合と取るべきではない。対象読者に合わせた訳文の工夫だ。読者層が違えば理解できる内容も違う。訳者はそれに合わせた訳を作る。それが出来ているということなのだ。読者層を意識した点は、この物語のみ漢字に総ルビが振られていることでも見て取れる。この物語から独立させて、すぐに一冊の本に出来る、そういう訳になっている。この本に収録された他の物語と違い、この話だけ総ルビというのは、明らかに読者層をはっきり意識した上での扱いだ。
 言葉遊びの訳で気に入ったのが「キツネノテブクロ」の訳。fox-gloveはfolk's-gloveの訛り、という部分、ここで敢えて原文から離れ、きつきつに根を張るから「きつ根のテブクロ」としたのは驚いた。ここまで大胆な訳は初めてではないか。
 訳文として不満なのは、キャロルがこの本に載せた二つの詩が省略されていること。前書きや「復活祭の挨拶」は訳さないのが編集方針であることが作品解題に書かれているが、同じ解題に「巻頭・巻末の詩がある場合は訳してある」とある以上、矛盾すると思われる。
 この訳で不満なのは、訳文ではなく、「本」としての不満。その不満は『鏡の国』以上に大きい。本来、この本はオールカラーで、仕掛け絵本的工夫が満載の本だ。しかしこの訳ではスペースの都合と製作コスト、同一シリーズの他の本との兼ね合い上、挿絵がすべて省かれている。キャロルが絵に言及する場面では『不思議の国』の該当する絵(当然、白黒)を参照するよう、ページ番号が記載されている。『子ども部屋のアリス』はキャロルがテニエルのカラー挿絵を見せながら、その説明をするというような作りの物語だけに、これは非常に大きなマイナスになる。『不思議の国』と『子ども部屋』では、同じ場面の挿絵でも、微妙に違っている(典型的なのがリボンの有無)のだが、それを措くとしても、この扱いは問題があると思う。収録スペースの事情であることは充分に理解する。しかし、それでもなお、ここは挿絵を入れるべきだったと感じる。そうでないと、訳者が訳文に取り入れた、年少者向けの工夫が、この本を読む限りでは意味を持たなくなってしまう。非常にもったいない作りになってしまった。

《註記》
 この本を手に取った方はお解りのように、本の口絵の構成を私が担当しています。ただ、手伝ったのは口絵だけで、本の形になるまで、私は訳を読んでいません。そういう点からも、レビューに身びいきはないと思っていますが 、レビューを出すに当たってはフェアにゆきたいと考えておりますので、この点についてあらかじめ弁明しておきます。


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『子ども部屋のアリス』安井泉・訳 七つ森書館

 原文が透けて見えるような日本語、これを褒め言葉として使うことの出来るのがこの訳者の文章だ。原文に忠実でありながら、達意の日本語という訳文は、なかなかあるものではない。今回も非常に読みやすい。
 この本でのキャロルの文体というのは、『不思議の国のアリス』とは少し違う。『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』のキャロルの文は、基本的に童話の約束に忠実に、物事を叙述する文体だ。しかしこの本では、通常の叙述の文体だけではなく、キャロルが直に読者へ話しかける文体も併用される。訳文ではこの二つの層の原文を日本語に移し替えている。その結果、訳文には二種類の文体が混在することになる。唐突な感じはしないものの、人によっては違和感を持つかも知れない。
 この訳書の大きな特徴は、挿絵を当時の本から採ったという点だ。イギリスで最初に出版された版(第二版)の値下げ版(第四版)が使用されている。第二版の売れ残ったものを値段だけ下げて発売したので、実質は第二版と同じものといえる。今まで、この版の挿絵を使った本は高橋康也・迪訳があった。しかしこれは、当時の版から絵を採ったものではない(おそらくはドーヴァー社から出ていた縮刷復刻版を原本にしている)。そのため原書の縮小写真製版(それも、多分に再現性の悪い)を、さらに拡大写真製版したような感じになっていた。その後出た新装版では、原書の挿絵ではなく、『不思議の国のアリス』からの挿絵を追加したりと、全く原書の面影を消してしまった。そういう意味では、この本が原書の第二版の挿絵を再現した、現在唯一の本ということになる。オズボーン・コレクションに収められている(イギリスでは最初没になり、一部がアメリカで売られた)初版から挿絵を採った高山宏訳と二冊揃いで持つと、キャロルがどんな風に挿絵の色使いを変えたかが解る。あえて注文をつけるなら、本は原書と同じサイズにしてほしかったというくらいか。
 この本で不満な点は三つ。一つは縦書きにしていること。もちろん日本語の本である以上、普通は縦書きが望ましいと思うが、この本については別だ。それは第9章でチェシャ猫が消える場面の再現のためだ。消えるチェシャ猫の絵がある場面、原書では見開き左に配置されていて、そのページの下をめくると二ページ前のアリスの絵が現れる。その絵はもともとアリスがチェシャ猫を見上げている絵。その下半分のアリスだけが見えることで、今度はアリスが消えるチェシャ猫を見上げているようになる。しかし、これは横書きであるからできること。挿絵を裏返しに印刷して、見開きの右に配置しない限り、ページの下をめくって二ページ前のアリスを現すようにすることはできない。そのため、この訳書ではこの部分が、二ページ戻った「71ページの左上の端を少し下に折り返してごらん」という風に、不自然な動きを読者に要求している(そして、そうしてもうまく見えない)。
 二点目は、原書では扉絵であった裁判の場面の絵が、この訳では第13章に移されていること。子供にはそのほうが解りやすいという配慮なのだろうが、この絵は『不思議の国のアリス』でも扉絵になっている。二つの『アリス』を通じて同じ場所に配置されている挿絵を動かすことには疑問を感じる。この点については高橋訳の旧版も同様であった。ただ、高橋訳の場合には、もともと翻訳が雑誌に連載されていた都合上、その回に該当の絵が出ていないと訳が解らくなるという事情があり、単行本化する際に連載原稿そのままで収録したということからそうなっている。しかし、一から単行本で出る場合には、原書の形式を守ってほしかった。
 不満の三点目は「復活祭の挨拶」「クリスマスの挨拶」の二つが省略されている点だ。この二つの詩文は同じ訳者の『地下の国のアリス』に収録されている。これは、『地下の国のアリス』のファクシミリ版が1886年に出版された時、この二つの詩文が収録されていたことによるが、キャロルは同じ詩文をまたこの本に収録したということになる。当然、そこにはキャロルの強い意向、子供にぜひ読んでもらいたいという思いがあるはずだ。確かに訳者としては同じものを二回収録するのも、という気持ちはあるのだろう。しかし、訳書はどこまでも作者あってのもので、訳者の思いが作者の思いを裏切ってはいけないはずだ。高橋訳の場合は、必ずしも原書の形式をとっていないということや、雑誌連載を単行本にしたこと、作品を紹介するのが優先した時代ということもある。テニエルの挿絵でない訳書では、そもそもテキストだけを訳すという理屈も成り立つ。しかし、原書の挿絵を収録し、極力原書の形式に近づけている本書のような場合、単にテキストだけではなく、キャロルの作った「本」を訳してほしかった。現に高山訳はそうしている。これらが大きな不満ということになる。
 上記不満はあるにせよ、読みやすい訳文とオールカラーの挿絵ということで、持っておくべき本の一つといえよう。
《註記》
 この本を手に取った方はお解りのように、これも『鏡の国のアリス』『地下の国のアリス』同様、私が関わっています。仲間褒めはしていない積もりですが、身びいきの出ている可能性は否定できません。とはいえ書誌的な信用については保証できますし、訳文についても、お奨めできるものであると思っています。レビューを出すに当たってはフェアにゆきたいと考えておりますので、この点についてあらかじめ弁明しておきます。

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『おとぎの "アリス"』高山宏・訳 ほるぷ出版

 大判であり、サイズ・ページの割り振りともに原書の形式を忠実に訳(?)している。E.G.トムソンの表紙絵を使っているのはこの訳だけ。訳文も悪くない。但し一つだけ文句がある。第9章のキツネノテブクロの説明、普通に訳しただけでは何のことか判らなくなる。何とかならなかったものか。

(2010年5月18日追記)
長い間品切れだったこの本だが、2010年4月25日付で「改訂新版」として復刊された。

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『子供部屋のアリス』高橋康也・迪・訳 新書館

 昔この本は小さな判で売られていた。大体が趣味で本を作っているといわれる新書館、訳文の素晴らしさと相俟って、それこそ宣伝文句にある「『アリス』の小さな、かわいい『いもうと』」であった。ところが慣れない商売っ気を出したのか新装版を出した。
 この本確かに訳文は悪くない。でも、何を考えたのか元の本にはない挿し絵(『不思議の国』からとったもの。当然、色が着いていない)を入れるは、勝手に挿し絵の色を抜くは、無茶苦茶である。大体『子供部屋のアリス』というのはオールカラーが特徴の一つだったのに何でこんなことをするのか。アリスなら「余分な絵が入っていて、元の絵の色の着いていない『子供部屋のアリス』なんて、一体何の訳に立つのかしら」とでも言いそうだ。是非とも旧版の復活を望む。

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その他、ガイドなど……

『「不思議の国のアリス」を英語で読む』別宮貞徳・著 PHP21世紀図書館、PHP文庫、ちくま学芸文庫

「楽しく学べる生きた外国語」シリーズの1冊。岩崎訳『不思議国のアリス』の項でも触れたが『アリス』を材料にした英語の参考書。
 内容は『不思議の国のアリス』を筋を追って紹介していきながらそこの英語を解説。単に文だけで解りにくいところは図で説明している(『アリス』の児童向けのリライトで必ずといっていいほど間違うクロケーとクリケットの違いについても説明がある。ちゃんとルールまで!)。読解の助けをする本であるから、当然、読みとりにくいところを「ここは……で」と説明してある。自然、今までの訳本の誤訳を指摘することになり『アリス』版『欠陥翻訳時評』の観を呈している。『不思議の国のアリス』を英語で読むには絶好のガイドとなろう。
 また、単に『アリス』の原書を読み解くだけではなく、英文解釈・英文法の参考書としても質が高い。普通の参考書に飽きた受験生が受験勉強の合間に読んだら、成績アップ間違いなし。僕はこの本であの「仮定法」が解った。英語に苦しむ高校生で『アリス』が好きという人は「英語がこんなにも楽しいものか」とびっくりすること請け合いだ。

(追記)
長い間品切れであった本書であるが、2004年8月にちくま学芸文庫から復刊された。

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『アリスのティーパーティー』ドーマウス協会・桑原茂夫・著 河出文庫

 二つの『アリス』を各章ごとにストーリィ紹介。普通だとつい見落としがちなところを指摘してくれる。これだけでも読めるし、『アリス』を読みながらの副読本としてそばに置いてもいい。'Alice's Adventures Under Ground'に出てくる(『不思議の国』では書き替えられた)「ネズミの尾話」も載っているので興味のある向きはご一読を。


 現在、日本国内で現役版として入手可能なものは総て紹介したと思いますが、何分個人で調べたので遺漏もあろうかと思います。もしこの中に漏れている翻訳をご存じの方がいらっしゃいましたらご一報下さいませんでしょうか? また、評には多分に僕の好みが入ってますので、公正さを欠いているかとも思います。cxj03744@nifty.comまでご意見などお寄せ下されば幸いに存じます。

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