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パラマウント映画『不思議の國のアリス』

(2004年11月7日 第10回日本ルイス・キャロル協会研究大会シンポジウム「日本におけるアリスの受容史――さまざまなメディアをとおして」における発表)

※当日の録音をもとに、公開には不適当な部分や言い間違い、意味の通りにくい部分について修正し、文字化したものです

ハンドアウト(pdfファイル)
・1〜3ページ
・4ページ

皆さんご存じのように、1933年に『不思議の国のアリス』がパラマウントで映画になった、これはまあご存じだと思います。これなんですが、どういうもんかご存じない方のためにハンドアウトの一番最後のページに、私が当時ビデオを視たときの感想文なんですが、簡単なストーリィの紹介も含んであるので載しております。これ、冒頭が雪の家から始まるんですが、なぜかというと1933年のクリスマスに公開されてるんです。ですから、もともと夏の話、happy summer daysのところを『鏡の国』という、冬をスタートににしているんですが、調べていくと、これ、実は翌年の3月に大阪松竹座が封切館で、日本で公開されてます。ちょっと、大阪松竹座というと、今、芝居小屋ということで、非常にマイナーなイメージがあるんですが、当時、これ、映画館だったんですね。つい最近改装されて芝居小屋に変わったんですけれども、もともとは映画館でした。で、なおかつ、大阪というんですが、当時、松竹は、松竹の兄弟がですね、東京と大阪、お兄さんのほうが大阪におりまして、弟のほうが東京。と、いうことで、どちらかといいますとね、もともと松竹は大阪出身、関西のほうの興行会社だったんですね。今でも京都の南座に松竹兄弟の二人、白井・大谷の兄弟の銅像があります。
で、これなんですが、なんと字幕、日本では最初期の字幕スーパーの映画だということが判りました。で、字幕翻訳してるのが、これが、なんとあの清水俊二なんですね。ご存じだと思いますけど、日本の字幕翻訳の草分けの一人、で、なおかつ、レイモンド・チャンドラーの翻訳でも定評のある方。で、最近でしたら戸田奈津子の師匠というと非常に解りやすいと思われますが、清水俊二が字幕の翻訳をしてる、と。

清水俊二なんですけど、実はこの人、昭和6年の末から8年の頭までアメリカにおりまして、その後日本パラマウントの社員として採用されて日本に戻ってきた、と。その後字幕翻訳をずっとやっていたんですが、昭和9年の『新映画』という雑誌の3月号にですね、ちょうど「春の大作紹介 不思議の國のアリス」という、そこで清水俊二自体が、エッセイ、というか紹介記事を書いてます、『アリス』の。この中で非常に面白いのは、特に同時代の証言として興味深いものがあるんで、ちょっと抜きましたけど、まづ一つには、昭和7年にまだ清水俊二は、ニューヨークに住んでました。そのために、キャロル生誕百年祭でコロンビア大学に招かれたアリスについて言及があるんですね。これ、ずーっといきますと、まづ、キャロルのGolden Afternoonの話とドジスンの話が出た後に、

「ダッヂスンは死んでしまつたけれど、アリス・リデルはまだ生きてゐる。昨年の春、彼女が紐育に來たとき、僕も紐育にゐたので、新聞で寫眞を見たが、品のいいまるまると太つた婆さんであつた」1)

これ、同時代の証言で、多分、これが日本人の証言で唯一だと思います。

もう一つ、非常に面白いのが、すでにフロイト的な解釈っていうのが、日本でも考えられていたんですね。それについても言及がありまして、

「まつたく、『不思議の國のアリス』を一讀して、これは精神病者が書いたのではないかと言つた人があるのも無理はない。フロイドの精神分析などで『不思議の國のアリス』を分析したならば、必ず面白い結果が現はれるだらうと思ふ」2)

とありまして、これがですね、その前年の1933年に、まさにそのフロイトの理論をそのままアリスに適用するという、これ、どうもパロディ化した論文らしいという話なんですが、"Alice in Wonderland Psychoanalysed"が発表されてます。当然、清水俊二が読んでる筈はないんですけれども、ほぼ同時期にこういう発想がある。で、また同じように、この時にですね、『映画評論』という雑誌の昭和9年にもですね、これは來島雪夫ですか、その人がですね、『アリス』について映画評を書いているんですが、これも同じようにフロイトが出ているんですね。たとえばこうなんです。

「大人が論理を辿つて、この物語を讀んだら、精神病者の體驗を聞く氣持で、たゞパラドキシカルな幻想が面白いと感ずるに過ぎない。全く、ある人の云ふ如く、フロイド心理學のよき材料と云はれてよい代物である」3)

あるいはですね、もうちょっと行って、アリスのコーカス・レースのところは皆さん、覚えてらっしゃると思うんですが、

「アリスが、お菓子を食べて、丈が大きくなつたり、小さくなつたりした後、涙の池に落ちて、色々の動物と一緒に泳ぎ、次に、着物を何うして乾したら、良いかと相談する。ドードー鳥が、それには「歴史」がよいと云ふ。歴史は、私の知つてゐる最も無味乾燥だからと、東西共通の洒落を云ふ。又、若しもフロイド先生がゐたら、アリスはこの時、寝小便したのですかと云ふかもしれない」3)

と、いう形でフロイトについても、当時、すでに日本でも言及されている。

日本で同時代の証言として、もう一つ、三点目としまして、この前年にですね、1933年に『アリス』の公開される前年に、ニューヨークのブロードウェイでEva Le Gallienneの演出によるミュージカルが出てます。これはですね、その後1983年にブロードウェイのテレビ・シリーズでリメイクされてます。思いっきり演出が変わりまして現代風になって、ケイト・バートンが主演でやっております。今AmazonでDVDで売ってますんで、これは皆さん見ることができますが、これとのですね、場面の比較を書いてます。また同じく清水俊二のエッセイに戻りますが、1932年、ニューヨークで上演された『アリス』を観た、と。これは

「ギャリアンヌと、門下のフロリダ・フリーバスとが苦力して脚色したものであるが、映畫に脚色したジョセフマンキウヰツとウヰリアムキャメロン・メンジスも芝居の脚色を踏襲してゐる」4)
「映畫の脚色は、前述の通り、芝居の脇本を殆どそのまま書き直してゐる」5)

という風になってます。つまり、この時に清水俊二という同時代の証言者によって、まさに映画と、芝居と、それから同時にこの時のアリスについても言及がある。

じゃあご本人は『アリス』を読んだのかというと、楠山正雄の訳だけは読んでるんです。

「かんじんの原著リュイス・キャロルの『不思議の國のアリス』は讀んでゐない。ただ、楠山正雄氏譯の邦譯で讀んだだけである」6)

と。その後がちょっと興味深いんですが、

「原作の『不思議の國のアリス』は、第一部「不思議の國のアリス」と第二部「鏡の裏の世界」の二部に分かれてゐる」7)

と、なってまして、これなんですけど、多分、本としては昭和の頭に出ました、合本した『アリスの夢』、これは第一部「不思議の國」、第二部「鏡のうら」となっており、多分、この合本をベースに考えたんじゃないかというふうに思われます。ただ、ここで見ていただいたら解るんですけども、『不思議の國のアリス』というタイトルで楠山は、戦前に本は出ておりません。ひょっとしたら出ている可能性があって我々が見つけていないだけかも知れませんけど、今知られている限り出ていません。
もう一つ、日本でほとんど読まれていないということも、はっきり書いています。

で、ここでちょっと、先ほど楠山のタイトルで云ったんですけども、ちょっと不思議なことが考えられるんですね。というのは、『不思議の國のアリス』というタイトルで日本では公開されています。ところが、これ、昭和5年に初めて『不思議の國のアリス』という題が出るんですが、それまで、昭和3年に『不思議國のアリス』、それ以前には『アリス物語』とかですね、『愛ちやんの夢物語』とか。『不思議の國のアリス』という題がないんですよ、ほとんど。そうすると、これは先行のタイトルを使った、あるいは、もうすでにこの昭和9年の時点でそういうものが広がっていたのかという疑問があるんですね。ところが、どうもそうではないんじゃないだろうか。というのは、先ほども云ったように、清水俊二は読んでないことをはっきりと書いている。しかも読んでる筈の楠山正雄で『不思議の國のアリス』という本は存在しない。
じゃあなんでなんや、と、いうことになるんですが、可能性としては『不思議の國のアリス』の定着という時に、映画として二つ可能性があるんですね、タイトルは。一つは、その時に『不思議の國のアリス』という題が広まっていたので、そのままタイトルをつけた。もう一つは逆のパターンで、これ、皆さんご存じのオールコットのLittle Womenという小説があります。こいつは、キャサリン・ヘップバーン主演の白黒映画になった時に『若草物語』という題がつけられたんですね。結局、その題があまりにもハマっていたがために、他の翻訳が全部『若草物語』へ右へ倣えをした、と。こっちの可能性もあるんですよ。

で、どうなのかな、と思て見ていったんですが、ちょうど『キネマ旬報』の昭和8年、ちょうど『アリス』の、もとのパラマウント版の『アリス』について撮影について書いた記事で、「海外通信」というのがありまして、そこではまづ、昭和8年11月1日では「ノーマン・マクロード氏は「お伽の國のアリス」の監督を」8)、次に出てきたところでは「前號所報の「お伽の國のアリス」には」9)、で、次にですね、今度はシャーロット・ヘンリーのポートレイトが出ていまして、そのときのキャプションが「「お伽の國のアリス」で主人公のアリスを勤めます」10)。つまり、ここまでずっと『お伽の國のアリス』なんですよ。ところが、その翌年の1月1日号の『キネマ旬報』で広告が出るんです。ここでは『不思議の國のアリス』の題で広告が出てます。これ以降はすべて、『キネマ旬報』に出てくるものは『不思議の國のアリス』の題のままなんです。
となると、ここから考えられることというのはですね、Alice in Wonderlandっていうのが『不思議の國のアリス』と一般的になっていたんじゃなくて、この映画までは必ずしも固まってなかったんじゃないか。で、その時に、おそらく考えられることは、『不思議の國のアリス』というのは、映画の、(Alice's Adventuresではなく)単なるAlice in Wonderlandをそのまま訳したんじゃないだろうかと。要するに清水俊二の訳というのが、かなりオリジナルとしてぼんと出来たんじゃないかと。
実は他の雑誌も見てみたんですが、『映画と演藝』、この雑誌も結構面白くてですね、最新の映画評とですね、十五代目羽左衛門の松王丸を一緒に評しているという、なかなか楽しい雑誌なんですが、この雑誌の第11巻1号では、最初『鏡の中のアリス』というタイトルで紹介されています。これ、おそらく字幕がまだ出てない頃ですから、原作を観た、原作というかパラマウントの映画をそのまま観ただけなんでしょう。これは、ストーリィが最初、鏡に入るところから始まって、それから『不思議の国』『鏡の国』といきます、この映画は。ですからそのタイトルではなかったか。で、同第3号では題が『不思議の國のアリス』になっている。
ということで、どうもですね、話としては、『不思議の國のアリス』というのは、映画で、清水俊二自体はほとんど先行に関係なく、自分でAlice in Wonderlandを『不思議の國のアリス』と訳したんじゃないだろうかということが考えられます。

次に、この映画が非常にマイナーなものだったら話は別なんですが、一応、これ、松竹系列で封切られています。雑誌というかパンフレットで「S.Y.ニュース」というのがありまして、私の持ってるのはとりあえず二つなんですが、これを見る限り、一つは東京の帝劇でやっています。もう一つは東京の邦樂座でやってるんですが、少なくとも雑誌のほうではこれが紹介されています。次に、『キネマ旬報』なんですが、ずうっとあって、これは広告もそうなんですが、まづクランクインしたところから「海外通信」、次に「映画紹介」、それと「映画評」、試写会の評も出ております。つまり非常に長い間取り上げられている。もう一つはここに載したんですが、昭和9年の2月21日号。これは12月第4週から1月第1週のニューヨーク主要館番組および主要成績調査。で、パラマウント劇場、12月第4週はパラマウント映画の『不思議の國のアリス』封切と、云々と書いていて、いくら儲けがあったまで書いている。もう一つは、『スタア』という雑誌があるんですが、これがですね、3月の上旬号で紹介記事、特集号としてもう一回3月下旬号にあるんですが、この時はですね、表紙がそのまま『アリス』を使ってるんですよ。というわけで、非常に影響が強かったんじゃないだろうか、という風なことが考えられます。つまりこれは全国規模で封切られ、当然全国規模の人が観てるという可能性が考えられます。

で、ここでもう一つの疑問として、じゃあ、本当にそこまで影響が強いものかということで、調べてみたんですが、大正末から終戦後すぐまでの『アリス』の翻訳について見ていったんです。
そうするとタイトルなんですが、大正9年に『不思議の國』。これが先ほどの楠山正雄の合本ですね。次に、大正10年には『鏡國めぐり』、同10年には『地中の世界』。これは雑誌掲載ですね。それから『アリスの不思議國めぐり』『ふしぎなお庭』ずーうっと行くんですが、まづ昭和3年に長沢才助の『不思議國のアリス』、これが後にタイトルが変わって『不思議の國のアリス』として昭和5年にもう一回でます。昭和4年岩崎民平『不思議國のアリス』、で昭和5年に楠山正雄。今度は『アリスの夢』の題で出てます。次に昭和7年と昭和8年、これ、年末年始なんですが、春陽堂の文庫の中で『不思議の國』で「アリス物語」とサブタイトル、次に『鏡の國』で、サブタイトルが「アリス物語」となって、ここで昭和9年の頭に映画が封切られるんですが、その直後、長沢才助の『不思議の國のアリス』がもう一回再刊されてます、『不思議の國のアリス』というタイトルで。もう一つ、大戸喜一郎の『不思議國めぐり』がこの年に、やはり『不思議の國のアリス』と、題が変わって出てるんですよ。ということは、これはもう、はっきり「映画に当て込んだな」というのが判るような出し方なんですね。

この後戦争のあった時期というのはずっと翻訳とかリライトは止まってるんですが、多分、戦後最初に出てきたのが『少年読売』という月刊誌に大佛次郎が『不思議國のアリス』という題で掲載しております11)。これ、リライトの上全4回で打ち切り同然に終わってるんですが、そういうものが出た。これがおそらく戦後初のリライトですが、これは「ふしぎこくのアリス」と、はっきりルビを振っております、タイトルに。
その後、昭和23年に『不思議の国のアリス』として、楠山正雄が出てる。そこで、先ほど云いました『鏡國めぐり』が、昭和21年に『不思議の國』という題で西条八十がもう一回出てるんですけれども、これちょっとおかしいと考えられませんか。と、いうのは『鏡の国のアリス』なのに、なぜ『不思議の國』か。ここで考えられる解釈なんですが、映画というのは、先ほども云いましたように『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』を一つにまとめてます。まづ鏡に入って不思議の国の冒険があって鏡の国の冒険があって、それからもとの夢から覚める。もう一つは楠山正雄がですね、第一部、第二部っていう形で紹介してます。楠山がまづ一部・二部という合本があって、次に映画として、やはりこの二つを一つにまとめたものが出てる。ということで、云い方は悪いんですけど『鏡の国のアリス』も含めて『不思議の国のアリス』という、多分認識が出たんだろう。これは映画の影響が非常に強いんじゃないだろうか、という風に考えられる。ということで、それ以降、昭和23年以降はほとんど『不思議国』あるいは『不思議の国』『不思議な国』という風にタイトルが固まってきます。

色々メディアという点で考えたときに、本からどうこう、という変遷というのがいろいろあるんですが、もう一つ、映画の影響というのも大きいんじゃないか。ただ、これは、ストーリィの認識っていうのは、当然、いろいろ調べていかないといけない、というより、証明のしようというのがあまりない。まぁその時のエッセイでもないと話のしようがないんですが、タイトルで見る限りは、かなり強いインパクトがあったということは立証できるんじゃないだろうかと、そういう風に考えております。
以上です。

註・出典:
  1. 『新映画』昭和9年3月号。p.41
  2. 同。p.42
  3. 『映画評論』昭和9年4月号。p.81
  4. 『新映画』昭和9年3月号。p.42
  5. 同。p.44
  6. 同。p.40
  7. 同。p.41
  8. 『キネマ旬報』昭和8年11月1日号。p.32
  9. 『キネマ旬報』昭和8年11月11日号。p.23
  10. 『キネマ旬報』昭和8年11月21日号。
  11. 『少年読売』昭和21年創刊号〜昭和22年2・3月号。なお、大佛のリライトは小原俊一『日本におけるCharles Lutwidge Dodgson関係文献目録』(1991)、『日本におけるCharles Lutwidge Dodgson関係文献目録補遺』(1994)にも記載がない。今大会での口頭報告が大佛版『アリス』の発見の公式報告としての第一報と考えられる。

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