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第三話

 時計が十二時二分と十五秒を打った。男爵の従僕 1 は慌てて大きなゴブレット 2 を掴むや恐怖にあえぎながら熱い、スパイスの利いたワインで満たした。「一時間も遅れた、遅刻だ」苦痛でうめいた。「きっと真っ赤に焼けた火かき棒でお仕置きされるぞ。男爵はそうしてやるって、よく言ってらしたからな。ああ! なんたる悲劇! 前から男爵の昼食 3 を準備してりゃよかった!」そして、止まることなく片手に湯気の立ったゴブレットをひっ掴み、競走馬並の速さで気品ある廊下を飛ぶように走って行った。話をする間もなく従僕は男爵の部屋の前に着き、ドアを開けて、――つま先立ちのまま止まってしまった。少しも動こうとはせず、驚きのあまり石みたいになっている。「どうした、この頓馬!」男爵が声を荒らげた。「何そんなところに突っ立って卒中起こした大蝦蟇 4 みたいに目の玉剥いてるんだ?」(男爵は比喩にはうるさい)「どうしたというのだ? 言わないか!」

 不運な奉公人は声を出そうと絶望的な努力をし、とうとう言葉を口にした。「畏き殿!」「よろしい! 話の糸口として非常によろしい!」男爵はやや平静な声で言った。と、いうのも男爵は「畏き」と呼ばれるのを好んでいたからだ。「続けるのだ! こんなことに一日も使っていられないからな!」「畏き殿!」従僕は怖れて吃る「お客――お客――人は――一体――どちらに?」「帰ったよ!」男爵は厳格な、断固たる口調で言い、無意識に親指で右肩の後ろを指した。「帰ったよ! 他にも寄るところがあるとかでね、そこへ出かけて行って落ち合った 5 、というわけさ――ところで、私のワインはどこだ?」不意に訊く。従者は喜んで男爵の手にゴブレットを渡し、部屋から出て行った。
 男爵はゴブレットを一息に飲み干し 6 、窓のところへ歩いていった。さっき落とされた男の姿はもう見えない。しかし男爵は男が落ちたところを見ながらいかめしい 7 笑みを浮かべて呟いた。「地面に凹み 8 ができたみたいだな」その時、怪しい風体の人影 9 が通り過ぎた。それに気づくと男爵も「あれは誰なんだ!」と考えてしまう。男が去っていった足跡を長い間見つめていたが、頭に浮かぶのはだだ一つ「一体、あれは誰なんだ!」
第四話に続く)

1.あるいは従者。第一話参照。
2.男爵の食事は熱い、スパイスを利かせたワイン以外はないようた。それ故に、男爵はすぐにカッカとする。
3.この従僕はワインを男爵の「昼食」と呼んでいる。我々は朝食もワインだったのを知っている。第一話参照。
4.男爵が従僕を馬や蝦蟇にそっくりだと考えていたかは疑わしい。
5.従僕にはこの洒落は解らなかった。
6.第一話参照。
7.男爵の笑みは常にいかめしく見える。第一話参照。男爵の笑いはうつろである。第一話参照。
8.おそらくシニョールの「禿鷹のような顔」で出来たのだろう。第二話参照。
9.第四話挿絵参照。